スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

『図書新聞』2020年上半期アンケート

最近の投稿

「全-世界学院」出版の設立(CRÉATION DES ÉDITIONS DE L'INSTITUT DU TOUT-MONDE)

(写真はマルティニック島フォール=ド=フランス)
エドゥアール・グリッサンが2006年に設立した「全-世界学院(Institut du Tout-Monde)」の出版部門が設立された、という知らせが届きました。
最初のラインナップは現在この学院の中心人物であり、グリッサン関連のネット上での情報構築に長年尽力しているロイック・セリさんによる二巻本のグリッサン研究書です。第三巻も刊行予定だとのことです。ほかにも「全-世界学院」のセミナーの記録や、ここを主催とするシンポジウム、ワークショップなどの記録が順次刊行されるとのことです。
詳しくは以下のサイトでご確認ください(フランス語)。
https://editionsitm.com
日本語圏でも、ついに9冊目の翻訳となる1975年発表の小説『憤死(マルモール)』が刊行されました。これは本当に快挙です。エドゥアール・グリッサンの研究は今後世界的にますます広がっていくと思います。研究である必要はありません。グリッサンの全-世界のヴィジョンに共感し、そのヴィジョンでもって世界を見る、他者とかかわる人々が日本語圏でもますます増えていくことを願っています。

感傷図書館(サンティマンテック)第21回 追悼ジャック・クルシル

(写真はマルティニック島の最南端の浜辺)   
6月25日(木)、旧友のラファエルからSNSのメッセージを久しぶりに受け取った。筆者がシェアした数年前のアフリカの芸術家の訃報記事を見て連絡をくれたのだった。その芸術家とはフレデリック・ブリュリィ・ブアブレ(1923‐2014)。象牙海岸出身で、ベテ族のための400以上の音節文字からなる新文字体系「ベテ・アルファベット」の考案者として知られる。 
ラファエルは、2009年のある思い出に触れてくれた。その年の12月、エドゥアール・グリッサン(1928‐2011)がカルべ文学賞授賞式のために主催者としてマルティニック島に戻ってきたときのことである。 ラファエルは当時グリッサンの個人秘書(現在はモントリオール大教員)をしており、筆者はカリブ海文学を肌身で感じるためにこの島に長期滞在をしていた。このようなわけでカルべ賞授賞式に筆者も居合わせたのだが、そのさいにたしか流されていたのが、短編記録映画「ブアブレのアルファベット」(ニュリット・アヴィヴ監督)だった。 
当時の筆者はブリュリィ・ブアブレのことをいまだ理解できておらず、その存在を衝撃的に受け止めるのは、真島一郎編『二〇世紀〈アフリカ〉の個体形成』(平凡社)に収められた編者の渾身の論考を読んでからのことになるが、このブアブレの死をめぐる記事に触れたラファエルは、09年、やはりその場に居た、グリッサンの親友ジャック・クルシル(1938‐)の近況を伝えてくれたのだった。 
クルシルとはどんな人物か。初めて見たときの様子を筆者はこう記したことがあった。 
「その演奏を目にしたのは、2009年12月マルティニックのカルベ賞授賞式においてだった。身長190cmを超えそうな初老の大男。片手にもったトランペットが小さく見える。その古びてくすんだ見た目から長らく愛用しているトランペットであることが分かった。男の後ろの白いスクリーンには、エドゥアール・グリッサンの最後の長編詩「大いなる混沌」が映し出されていた。この詩の朗読と交互に、男はその大きな体躯を前に屈ませて小さなトランペットを吹く。楽器から発せられる音は、もはや音というよりも一個の声だ。ある道を究めた人間が辿りつく境地というものがあるとしたら、それはたとえばこのようなトランペットの奏でる音かもしれない。そう思わせる凄みがジ…

『越境広場』第7号

(写真は独立投票日の前後に滞在したニューカレドニアで撮影したもの) 『越境広場』の第7号が沖縄から届きました。250ページに達する今号は、「島嶼の政治性」と「首里城炎上」の2つの特集からなります。最初の特集のほうを中心にここでは紹介します。「島嶼の政治性」の特集は次のリード文からはじまります。世界の海洋に点在する島々に振るわれた植民地主義の暴力。掠奪、破壊、挙句の殺戮によって住民を「奴隷」化した島の歴史。世界の覇権をめぐって展開する大国の軍事政策が引き起こした、島の住民の分断と生活や自然の破壊。おうした過酷な国家的暴力から生活の基盤となる土地と自らの生を守るために、抗い続ける人々がいる。苦難の歴史を背負った島々の有り様を語ることで、世界を変革せしめんことを。

軍事の島から共生の島へ、隔ての海から結びの海へ。そのために島は旅する。旅するところに島嶼の政治性が、声が、文体が誕生する。済州島、台湾島、ハワイ島、グアム島、マーシャル諸島、カリブ海の島々、プエルトリコ、そして宮古島、沖縄島。分かちあわれるひとびとと海と抵抗の導線。多島海の新しい地図のために。
今号の特集は、このリード文に導かれるように、宮古島、沖縄島から済州島、金門島という順番で、琉球弧から始まる旅はちょうど地球の裏側のカリブ海、プエルトリコ、さらに記憶のなかの多島海に誘います。巻頭に置かれた粟国恭子氏の「REMEMBER」と題された宮古諸島をめぐる論考は、地球という星のなかでの人々の生活というスケールの大きな視点で島での人々の生活の営みを捉え、宮古の「沖縄戦」から「戦後」を語り継ぐ、とても大切な作品です。また、カリブ海の島々との関係をもたれている阿部小涼氏の「縫い合わせる島々の政治詩学」が「日本語圏でカリブ海域を論じる」ことを考察しており、共感して読みました。わたしは「カリブ海の島々」で一文を寄せました。「20世紀末クレオール論の政治的意義とその喪失の今日的意味」というタイトルです。カリブ海フランス領からの「クレオール」のメッセージが日本語の言論のなかでどのように受容され、繰り広げられていったかをたどりました。このようにわたしの多少知るマルティニック島における近年の政治を語る内容ではありませんが、東京で生まれ暮らす一人がカリブ海文学に出会うきっかけとなった「クレオール」がどのようなメッセージとして同時代の日本語…

感傷図書館(サンティマンテック)第20回(『図書新聞』)トニ・モリスン『他者の起源』、タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』

2020年5月25日、ミネアポリス警察の「白人」警官によって「黒人」ジョージ・フロイド氏が窒息死させられた事件を契機に警察の暴力およびレイシズムにたいする抗議運動が全米のみならず欧州にも波及している。今回の事件から抗議活動が波及した重要な契機はフロイド氏がまったく抵抗できない状態でその肉体が動かなくなる様子を撮影した動画がソーシャル・メディアを介して拡散したことが間違いなく大きかった。  合衆国におけるレイシズムを考えるにあたり、トニ・モリスン(1931‐2019)が2016年にハーバード大学でおこなった講演録『「他者」の起源』は時宜を得た書だ。ちょうど勤務先での2020年度前期「教養演習」で取り上げている。同書でモリスンが示唆するように、差別とは本質的には区別であり、自分とは異なる存在として認識していく社会化のプロセスのうちで身につける価値観に潜んでいる。それは「他者化」の論理だ。モリスンはアメリカの文学作品や農園主の記録を事例に、これが合衆国の奴隷制の歴史と切り離せないことを提示する。カラーに執着し、カラーでもって差別を正当化する法を制定してきたのは「白人」だった。  モリスンからボールドウィンの再来と評されるタナハシ・コーツ(1975年生)は、文学作品を題材に考察するモリスンよりも、いっそう直裁に「黒人問題」を提起する。コーツは、『「他者」の起源』への序文で、モリスンのハーバード大学講演から2017年の原書刊行までの1年間で起きたレイシズムをめぐるアメリカの国家政策の決定的変化を指摘している。すなわち16年とはオバマ政権二期目の最後の年であり、オバマが二人のアフリカン・アメリカンの司法長官に全米の警察署の調査を開始させ、「これまで長い間、瑣末な出来事として処理されていた、いわば組織的人種主義が現実のものであることを明らかにした」年だった。  警察暴力の日常性が明るみとなり、BLM(Black Lives Matter)運動が盛り上がりを見せたのには、こうしたオバマ政権時代の調査があったという指摘は重い。そしてこの指摘をおこなうコーツ自身が、警察暴力に絶えず晒される「黒人の肉体」という問題を、15年出版、同年の全米図書賞受賞の大ベストセラー作『世界と僕のあいだに』で生々しく描いている。   15歳にさしかかる息子サモリに宛てた手紙という体裁で綴られる本書はその冒…

「野蛮の言説」論から見た自民党広報漫画の意味

「自民党広報」のTwitterが6月19日付で公開した「教えて! もやウィン」という四コマ漫画が「憲法改正の必要性」を「進化論」の観点から説明したことが「進化論の誤用」だとして批判を受けた、という20日付の『朝日新聞』のネット記事「進化論の誤用、憲法改正に引用 自民のツイートに批判」を読み、この件について、私見を書いておこうと考えた。まず、はっきりさせておかなければならないのが、今回の漫画は「憲法改正」のための広報であり、強い言葉で言えばプロパガンダであることだ。「進化論」の説明から「憲法改正の必要性」へと移行するコマにはTwitter上でも指摘があったとおり、論理的に飛躍している。しかし、これは製作者にすれば、感覚的に受け止められたらよいわけである。この漫画がやがて削除されるのかどうかは知らない。その批判もふくめて拡散すれば良いのだとすれば、逆にこうした批判による拡散も織り込み済みなのかもしれない。さて、この広報ではこんな説明がなされていた。「ダーウィンの進化論ではこういわれておる」「最も強い者が生き残るのではなく最も賢い者が生き延びるのでもない。」「唯一生き残ることが出来るのは変化できる者である。」この言い方はダーウィンに帰されるとする発言だが、この発言自体が実はダーウィンのものではないと『朝日新聞』の当該記事は伝えている。「唯一生き残ることが出来るのは変化できる者」というのは誤りであり、進化論理解の誤謬に基づくフェイクであると言われている。科学者が自身の専門分野に基づいて誤りを正すのは真っ当な社会である。ただ、私が気になるのは、こうした「誤謬」が世の中に相当広がっているのではないか、ということである。ダーウィンが本当に言っているかどうかよりも、こうしたメッセージが「進化論的なもの」としてこの社会の言説のなかに定着しているのではないか、ということが気になるのだ。今回の問題は、その意味では「進化論の誤用」というよりも、「進化論」という「普遍的な論理」だとこの社会で受け止められている論理を「憲法改正」に結びつけ、だからこの時代に「適応した」憲法が必要であるという、じつは何にでも適用できる論理でもって、感覚的に「わかる」気にさせることのほうである。さらにこの先に控えているのは、正当にも指摘されている社会進化論の論理である。この件についてはぜひ拙著『野蛮の言説』を参照…

授業について

オンライン授業がはじまって数週間が経過した。早稲田大学の授業では、語学はリアルタイム配信、演習の授業もリアルタイム配信、講義の授業は事前録画と通信型を採用している。

さまざまな実験のなかで、私にとって大きいのは履修者数だ。リアルタイム配信型は、少人数のほうが効果を発揮すると思う。そして、この授業形態をとる場合には、受講者に発言してもらうことをもっとも重視することになる。

現在、演習の授業では、トニ・モリスンの『他者の起源』を教材とし、これを読み進める授業をしている。この本を読んでいると、最近上梓した『野蛮の言説』と論点が大きく重なるので、大きな共感を覚えるとともに、本書でモリスンの仕事に言及できなかったのがやや悔やまれる(そもそも、アメリカ合衆国を題材にしたことは書かなかった)。

講義の方では、一方では、『野蛮の言説』を扱っている(他方はオムニバス授業)。お読みくださった方はご存知かもしれないが、この本の内容をベースに昨年度授業をおこなった。今年、残念ながら受講者数は減ってしまったのだが、その分、この授業に集ってくれる学生たちに向き合うことができるようになった。

さて、この授業はこのように行っている。全15講分を4パートに分け、4回分、小レポートを提出してもらう。そして各回の提出期限にあわせて、リアルタイム配信の授業をおこない、提出されたレポートへの講評をおこなったり、質問に直接答えたりする、というやり方だ。これはオンライン授業のメリットである。対面授業にした場合、全15回分を話し終えることは難しいからだ(授業だと、かならずテキストに書いてないことを話す)。ところが、本を読むことを課題とした場合は、最後まで読んでもらうことができる。

先日、実際にリアルタイム配信をおこない、こうしたリアルタイム配信の回は今後も続けるほうがよいというたしかな感触を得た。受講者の問題関心は高く、本書も購入してくれている。「本を精読すること」が、現時点でのわたしの授業理念であり、一冊の本を時間をかけて読み、考え、発信する、という共同作業を、なるべく続けていきたいと思っている。