外国語で書くこと

外国語で書くことはこれまであまり考えたことがなかった。

これまで幾つかの論文を書いてきたが、それはどれも日本語だ。海外で発表したのも一度きり。外国文学をやっているのだから、対象とする作家たちの表現言語(この場合はフランス語)に習熟するのは当たり前のことだが、この習熟にいつも手間取るあまり、わざわざフランス語で書こうという意識が芽生えなかったといえば、それまでのことか。

だからだろう、ぼくの所属する日本の学会の学会誌に執筆する機会にも、表現言語に日本語を選んできた。ただ、この場合、習熟云々が問題であるのではなく、そもそも日本の学会誌に発表するものに、わざわざフランス語で書く、ということの積極的意義が見出せなかったのだ。

これはぼくが研究する分野のマイナー性も一役買っている。少なくともフランス語フランス文学会の制度内では、グリッサンのような作家はまだまだ認知されていない。だから、まずは日本語のなかに、日本語による研究の蓄積のなかに、グリッサンの名を刻み込むことがぼくには重要に思われたのである。

いまでもぼくはそう思っているが、ただやはりフランス語(外国語)で書くことの意義も再認識させられている。研究者として生きる以上、勝負すべきは国際的な場であることは自明の理だ。学会誌とは、基本的にその会員が読むものであると見なすならば、その成員のほとんどが日本語話者だからという理由で、日本語で書くことに何の疑いも持たなかったが、たしかにそれでは外に開いていかない。学会誌とは地域性を超えて、ディシプリンの普遍性のもとに存在するのならば、たしかに『フランス語フランス文学研究』を掲げる雑誌は、日本で刊行されているとはいえ、フランス語で書かれなければならない。おそらく伝統的に日本語論文よりもフランス語論文の方に重きが置かれるのは(本数を見れば明らかだ)、おそらくこうした信念のもとに、雑誌が刊行されているからなのだろう。この意味に気づかされたとき、はっとさせられたのだ。

しかし、「まてよ」とすかさず思う。ぼくは、そもそもフランス文学研究なのだろうか。たしかにフランス語表現の作家研究だが、グリッサンにしろ、セゼールにしろ、コンデにしろ、ぼくの興味を引く作家たちはいずれもフランスの「外」の作家たちだ。そういう意味では、ぼくもやはりフランス文学の「外」なのだ。この「外」はいったいフランスにおける文学研究ではどのように扱われるのだろうか。いわゆる「国文」ではないのはたしかだ。基本は文学だとしても、様々なディシプリンの交差路に位置づけられるのは容易に想像がつく。

ここからは大いなる飛躍だが、ぼくの考えでは、表現言語に優劣はない。日本語でも、フランス語でも、英語でも、クレオール語でも、その価値は等価である。しかし、日本語だけで書くよりも、フランス語で書けばフランス語話者が読んでくれる。クレオール語で書けば、その行為じたいが政治性を帯びる。表現言語の選択において、発信する相手、文体、その選択の持つ意味合いが変化する。だから価値は等価だが、その行為にはそれぞれの特異性がある。

外国語で書く意味はひとえに書く行為の特異性にあるのではないか。それはやはり母語では得られない独特の喜びがあるはずだ。

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