文学と政治

研究上の関心から、最近いろいろと考えさせられることが多い。

その一つは、いわゆる「ポストコロニアル」についてだ。この言葉が日本語に移植されたのは90年代初頭であると記憶する。しかし、英米圏で活発になったこの批評のスタイルが、フランスに紹介されたのはわりと最近のことだ。そうしたこともあってだろう、一昨年ぐらい前だろうか、周りでポストポストコロニアル文学研究会が組織されて、隔月で研究会を行なっていた。仏文系の人たちがけっこう参加する研究会だ。もちろん、これには期待をもって参加していたが、今年の夏以降に、気づけばほぼ自然消滅。さらにまた、この秋に文化人類学の学会で、「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為であったか」という、興味深い論争形式の催しがあった。また巷では、「ポストコロニアル」というこの言葉が蔑称的に使用されることが多い。

何が言いたいのか。ぼくの言いたいのは、ようするに、現在、「ポストコロニアル」が、人びと(人文系業界に携わる)の関心を急速に失いつつあるということだ。直感的にそう思うし、現に上のようなこともある。

その理由はよく分かる。なぜならこの言葉のコノテーションには倫理性がつねにつきまとっているからだ。とはいえ、「ポストコロニアル」=「倫理的」という捉え方はどうだろう。そこにはある種の思考の短絡があると思う。

文学と政治をめぐる問いは、何も目新しいものではない。いわゆる「マルクス主義文学論」が文学を現実の反映として捉えたり、文学を政治主義的に捉えたことがあった。「ポストコロニアル文学」はこの反省をかいぐぐったところで、もう一度文学と政治を切り結んだところに、その批判性があったのではないだろうか。

いま、ぼくが危惧することは、この言葉とともに考えられてきた様々な問いかけが、忘却されるのではないか、ということだ。「クレオール」が日本の言論において批判され、忘れられていったのと同じように、同じことが起きるのではないか、という予感だ。

政治主義的、倫理主義的な文学の読解は二次的なものだし、はっきりいって、つまらないものだと思う。しかし、そのことと、いわゆる「ポストコロニアル」という言葉のもとで注視されるようになった、非西欧の、植民地を経験した場所から生まれてきた文学の豊かさ(複雑さ)は、別の問題だ。さらにいえば、そうした文学を地域主義的に囲い込むことも、ぼくはまったく好まない。

結局、文学の問題として突き詰めてしまえば、「ポストコロニアル」の文学の豊かさと複雑さを掬い取る批評言語を、ぼくたちはまだ持っていないということだ。ある批評家が述べたように、一個の作家には一個の理論が必要だ。それは、異なる時空間を生きる作家たちの言葉を分析するメタ言語を獲得するためには、なおさら要請されることだろう。

そこにこそ、ぼくたちの倫理性、政治性があるのではないだろうか。

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