寺山修司とジャズ

『武満徹 対談選』。最近ちくま学芸文庫の一冊として刊行された本だ。近所の大学図書館で見かけ、ぱらぱらとめくって見た。

武満徹については、現代音楽の有名な作曲家という程度の認識しかなく、カレの本を手にするのもこれが初めて。ぱらぱらとめくるなか、寺山修司との対談(より正確には寺山の発言)が目にとまった。

この対談は、1976年の『ユリイカ』が初出。ジャズ特集だったらしく、テーマはジャズだ。そこで、寺山がジャズにおける「即興」について面白いことを述べている。ぼく自身の備忘録も兼ねて、ここにその箇所を引用しておこう。

寺山:武満さんは例外かもしれなけど普通、音楽家はさ、ジャズを西洋音楽と対比させるとき、ジャズの中の即興演奏の部分だけをすごく拡大して、その部分だけで評価するという傾向があったと思う(……)

寺山:僕が演劇をやっていても俳優による即興ということは一つの大きな可能性でもあり、同時に一つの限界でもあるのですね。たとえばシュルレアリスムの初期は、きわめてオプティミスティックな時代で、メスカリンやアルコールが理性を解体してオートマティックに潜在意識を吐き出させ、それが一般的理性へのアンチテーゼとして「表現」にまで止揚できると思いこまれていた。しかし、それは個人という概念を大前提としたインプロヴァイズであって、モノローグ的なものです。「自動筆記」と「他動筆記」とのあいだの往復運動がない。つまり"自分"の定義っていうのをどうやってするのかっていうことができがたい。こうやって今、僕が喋っていても、もしあした誰かとジャズについて話すことになると、今日武満さんから聞いたことを「自分のことば」として喋ることになる(……)

寺山:結局人間の体ってのは「言葉の容れ物」にすぎないし、出し入れも自由である、というところから出発する必要がある。だからオリジナリティとか個的感性とか主体性とかっていうものは、つねに集団との関係の中でとらえなければイミがない(……)。即興はつねに、ゆるぎない戒律、個人の理性によって保たれている様式の反語としてあるべきであって他人の言葉を無意識に喋っているのは、他人の意識が自分の肉体を通り抜けているだけであって即興とは言えないんだよ。

以上で引用は終わり。ぼくが面白いと思ったのは、寺山の時代と表現の係わりの切り取り方だ。寺山が問題としているのは、ジャズそのものではなく、70年代中盤という時代においてのジャズの語り方である。すでに「私」の境界がはっきりしないという寺山の時代認識において、ジャズという表現の可能性を「即興」に見ることは、あまりに楽観主義的だというのだ。その点で、「集団」との関係のなかで個人のオリジナリティを捉えるという視点は興味深い。さらにまた、この対談の前半では、ジャズと革命を結び付けて語ることに対する違和感も表明されており、この点について、武満も同意している。

ジャズを革命に結びつけるという語り口にかんしては、平岡正明をすぐに思い出すが、平岡のジャズ批評は面白いと思っている。どう捉えればよいのか、難しいところだ。

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