詩の思想――『琉球弧 詩・思想・状況』

詩人、高良勉(たから・べん、1949年生まれ)の第一評論集。先の『沖縄戦後詩史』で本書所収の一文が参考文献の一つとして挙げられていることから、また川満信一の詩論を収めていることから古書で購入した。海風社、1988年刊。

本書は、1977年から84年までに書かれた文章を収めている。沖縄文化を論じた評論、文学・詩論、読書ノート(書評)によって構成されている。もっとも古いものは、同世代の山口恒治の詩集「夏の暦敗」を論じたもの。この文章は若い頃のものだとして、「幼稚な点だけが目立つ」と著者は謙遜するが、その分、論じる対象についての思い入れも強く、高良勉がこだわる点もよく分かり、好感を覚える。

詩については、分かると思うことより、分からないと思うことのほうがずっと多いが、たどたどしく詩のことばを辿るにつれ、詩には(詩人の数、詩集の数、詩の数に応じて)無数の世界があるという、普通に考えれば分かることを、ようやくおぼろげながら実感してきた。高良勉の詩はまだ読んでいない。だが、おそらく『戦後沖縄詩史』の著者が「岬」にこだわるという詩人と端的に形容するのと、高良自身の詩論とのあいだには、少なくない齟齬を感じてしまう。

「夏の暦敗」を論じた先の文章に、高良は自身の詩をめぐる考えをこう書き記している。「詩にとって大切な事は、(……)、詩人の実存とその思想の葛藤から来る「表現の自立と切実さ」であろう。それは詩人の特質によって、様々な意匠となって表現されてくる。」これを前提として、高良は詩の評価についてこう書いている。「私は詩の評価において、その思想性を第一に重視している。思想的に耐えられ、共感できる詩でない限り、リリシズムもテクニックも私の知の海にさざ波を立てても、私の魂をゆさぶることはできない。」

詩をその思想において評価する、というスタンス。もちろん、ここで表明されているのは、イデオロギーや政治的判断を評価するということではない。そうではなく、詩人の認識と思想を表現する詩を高良は評価し、そういう詩を書こうと望む。

こうした高良勉の詩をめぐる考えは、詩人にして思想家の川満信一にも大きな影響を受けている。そのことを考え合わせれば、著者の考えが、吉本隆明の詩論と親和的なのも別段不思議ではない。吉本もまた、「思想」に重きを置く。吉本は『戦後詩史論』の後半で、日本の若い詩人たちの詩が「修辞的」なものになっていると論じているそうだが、そのことに共感する高良は、琉球独自の個と共同性の在り方に着目し、そこを基点に詩を出発させようとするつ川満の詩作を高く評価する。

本書を読んではっとさせられたのは、詩と思想の関係だ。ぼくは最近の文章で、新川明について、詩から評論に活動の場を移したこととについて、「反復帰」の思想を語る上では、詩よりも散文の方が適切である、という趣旨の一文を書いた。大筋では間違いとは思わないが、高良の考えを踏まえれば、もっと丁寧に書くべきところだった。

最後に、高良の文章について感想を述べておきたい。文章は、やわらかく読みやすい。書き手のスタンスとしては「反復帰」の系譜に連なると思う。川満に大きく触発されているように、言語論、共同体論への関心が見えるのが特徴的。だが、読み手を真っ向から拒んだり、非難したり、否定する、そういう文章の類ではない。高良の文章は、読み手をやわらい語り口で誘いながらも、沖縄のこと、詩のことなどについて立ち止まって考えさせる、そういう呼吸の文章だ。

最近、沖縄関連のものを読んでいると、表現の水準において「ひどい」と思うものに出くわす。それらは、沖縄内外の研究者が書いているもので、倫理的であり、攻撃的なものである。よく言えば、新川明氏の文体に似ていなくはないのだが(ぼくが「反暴力」と名づける水準において。「反暴力」の文体はある覚悟のもとに書かれた強力な文体だ)、それでも、表現の水準では、同列におくことはできないと思っている。このあたりは、きちんと考える必要があるだろう。

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