グリッサンの文体

グリッサンを研究するにあたって、最終的に目指すところは、文体研究だ。身の程知らずの仕事である。しかし、結局、文学研究にとって、言語表現につぶさにこだわり、検討してゆくこと以上に、なすべきことはないように思える。

いまグリッサンのある著作を訳しながら、そのことを痛感している。前置詞の選択、他動詞の自動詞化、またその逆、形容詞の捉えがたさ、等々、これらを正確に「把握」することの難しさに直面している。これは数年間、先生と友人たちと一緒に継続している輪読会におけるテキストのなかでも、議論されてきたものである。

たとえば、introduire à をどう考えるのか。グリッサンはintroduireを用いるとき、必ずと言っていいほど前置詞àをつける。だが、ぼくの知る限り、辞書にはこの用法は存在しない。普通は直接目的語をとり、間接目的語はとらないのだが、そうした用法をよそに、グリッサンはàをつける。前回の輪読会では、conduire àに近いのではないか、という意見がでた。ニュアンスとしてはそうかもしれない。またフランス語では特に破格という感じでもないらしい(この辺はぼくには感覚としてはまったく分からないところ)。

ともあれ、重要なのは、これによって意味が根本的に変わることはないが、若干のニュアンスの違いが出ているということ。感覚としては、日本語の助詞のようなものだと思う。

ここからは妄想だが、こうした表現の背後には、吉本隆明が行なった言語論の探究の別の可能性があるのではないかと思っている。ある意味では、グリッサンにおける前置詞は、自己表出なのかもしれないと思うのだ。

もちろんこれはあくまで今現在ぼくが思うことに過ぎない。実際は、たんなる作文的な水準の話なのかもしれないとも思う。だが、こうした探究の方向の先に、言語表現の水準におけるカリブ文学史構想の可能性は開かれていると考えるのも、悪くないと思うのだ。

コメント

castorp さんの投稿…
introdiure a というのは、古いフランス語にあったような。ちょっと気をつけてみます !  テクストの微視的な徴候を読みとって広く人間社会を論じるという点では、歴史学も文学研究も同じですよね。一刻も早く敵対感情が消滅し、両者が「テクストの学」としてすみやかに統合されることを望んでやみません。
omeros さんの投稿…
ありがとうございます! そういえば、グリッサンの文体の特徴は、日常的な話し方(クレオール語的?)を取り入れているところにあるようです。いま訳しているフォークナー論においても、それに近い話が出てきます。
「テクストの学」としての歴史学と文学研究というのは、とても魅力的です。そのとおりだと思いますし。そうした関係を結びなおすための、なんらかの貢献ができればよいなと思います。