池袋モンパルナス

友人に誘われて、池袋モンパルナスの会の主催する小熊秀雄を偲ぶ「長々忌」に参加した。 長谷川龍生氏が講演。小熊秀雄と中野重治との交流。長谷川氏のお師匠筋にあたる小野十三郎の話など、いろいろなエピソードをお話ししてくれた。色々と興味深かったのだが、そのなかで気になったのが、小野十三郎の短歌的叙情性の 否定の話だ。三十一文字からなる感性的な言語形式をから脱することが近代詩の始まり であるとするならば、その形式へと戻る(引き戻される)力とは何なのだろう? 短歌的叙情性の否定が、政治的前衛性と結びつくのだとすれば、その前衛に立っていた人々が、やがて短歌へと回帰するのはどういうことなのか?ぼくの考えるのは、「パルチザン伝説」のモデルとなっている「過激派」武装戦線や、「あさま山荘事件」の政治組織のメンバーが、獄中で、自分たちの表現の形式として「短歌」を選択することの「逆説」である。この点にかんして、Mさんが話してくれたことが印象的だった。いわく、短歌というのは感情の表出としてはもっとも楽であり、「自然」であるということ。まさに、ここにこのことを考える重要な鍵があると思える。

コメント

haru さんのコメント…
短歌的叙情性の否定、興味深いところです。桑原武夫の「第二芸術論」など芸術の理念をめぐる議論は多々ありますが、日本的な心性にかかわる問題となると、複雑なものがありそうですね。
omeros さんの投稿…
日本的心性にかかわる問題を、日本的心性に抗う仕方で、提起できればいいなと思います。