キャリル・フィリップスのグリッサン論

グリッサンの評論『フォークナー、ミシシッピ』を読解するさいの補助線として、昨年秋に出版されたキャリル・フィリップスの評論集『新しい世界のかたち』(明石書店)に収められた、グリッサン論を読み直す。

フィリップスの文章はひじょうに明晰である。訳はたいへん読みやすいので、以前と同様に今回もすらすらと読んだけれども、再読の印象は異なる。

フィリップスはグリッサンに批判的である。英語圏の黒人作家である彼にとって、グリッサンの難解さはフランス語圏の文化的傾向として把握され、その傾向にたいするフィリップスの嫌悪感が表明されている。フィリップスは、グリッサンの文章の意図的な散漫さ(物語の直線的展開の拒否)も指摘しており、これももっともだと思う。この二つの指摘はどれも正当だと思う。

しかし、グリッサンの難解さが、革命主義にあるというのは、的外れのように思う。50年代のグリッサンにはそうした傾向もあったかもしれない。海外県の政治的独立を目指した時期もたしかにあった。しかし、グリッサンの難解さをフランス語圏作家にありがちな革命志向と捉えるのは、強引過ぎる。今回読み直して引っかかったのはこの点だ。

大きな疑問点が一つ出てくると、論にたいする細かい疑問も湧いてくる。フィリップスの文章はジャーナリスティックであり、それはそれで良いのだが、引用の出典がない分、どこまでが本人の見解なのかが分からなくなってきた。『意識の太陽』から『関係の詩学』をへて『フォークナー、ミシシッピ』に至るまで言及され、手際よくまとめらているのだが、難解な作品につきあってきた読者の言葉としては、どこか表層的なのだ。

そもそも『フォークナー、ミシシッピ』にしても、細かく読んだのは最初の章だけだろう。『フォークナー、ミシシッピ』のなかには、政治と文学をめぐる問題がフォークナーにおける黒人問題とのかかわりで執拗に言及されるが、それについては、おそらく故意に言い落とされている(フィリップスの本の中では、合衆国の黒人作家を論じた章で、人種問題がクローズアップされているからだろう)。さらには、後半部で展開される、スノープス三部作におけるアメリカ社会の画一化と平板化という主題の先に、「全世界」へ繋がるヴィジョンを見ようとする大切な視点については、まったく触れられていない。一言でいえば、バランスに欠いているのである。

一点、完全な事実誤認がある。1956年に第1回黒人芸術家・作家会議で長い演説をしたのは、グリッサンではなく、エメ・セゼールである。ボールドウィンの評論が引かれているが、これはフィリップスの記憶違いである。ボールドウィンを引きながら、グリッサンを批判しているのだが、そもそも、グリッサンは演説などしていない(『プレザンス・アフリケーヌ』誌におけるこの会議の特集号を見れば分かる)。ボールドウィンの論考も確認したところ、グリッサンの名前は一度も出てこなかった。

再読をとおして、誤訳も一点気づいた。259ページの『フォークナー、ミシシッピ』からの最初の方の引用である。ただ、この誤訳は『フォークナー、ミシシッピ』の英訳の誤訳である。He and I are alike in the way we focus on huge ants...の原文は、nous nous rassemblons pour observer d'enormes fourmis...である。明らかにse rassemblerをse ressemblerと取り違えており、そのため、nousもHe and I、つまりフォークナーと私=グリッサンになっている。おそらく、ここでのnousはローアン・オークに同行している仲間たちのことであり、フォークナーではない。

コメント

jacker さんの投稿…
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