探究の途上としての文章

最近翻訳が出たカルロ・ギンズブルグの『糸と痕跡』の書評会を訳者の上村先生の自宅で行なう。

『糸と痕跡』に収録された六本の論考のなかで、とくに面白いと思ったのはクラカウアー論である。ただ、内容が複雑であるので、正直なところ十分な理解に至らない。この論考を織り成す個々のテクスト、たとえば、クラカウアーの『歴史』や『映画の理論』なども併読する必要があると感じた。

上村先生のコメントにおいて印象に残ったのは、ギンズブルグの書き方である。正確な言葉は覚えていないが、ギンズブルグの文章は探究の途上にある文章で、安易に答えを導かないところに共感するものがあるといった趣旨のご発言だったと記憶している。目が覚める思いがした。

大学院時代、上村ゼミにお世話になりながら、おそらくぼくが理解できなかったことの一つがこれだったのか、と今にして思う。いま、一人ひとりゼミの先輩の顔が思い浮かんでくるが、ゼミのメンバーはみな安易に答えを導かないという姿勢で一貫していた。

おそらく昔は、こう見えていたはずだ。なんであんなに難しい書き方をするのだろう、と。

もちろん、問いを安易に導かないというのは、難解に書くことと同義ではない。論理の明快さ、一貫性はいつでも美点である。しかし、明快さを求めるあまり、思考の複雑な手続きをすっとばしてしまっては、当然だめだ。その複雑さに寄り添いながら、可能な限り、答え(ギンズブルグの言葉でいえばおそらく歴史の「真実」)のほうへ接近しようと試みること。

当時のぼくが分からなかったのは、こうした書き方、文章のスタイルをめぐることである。むしろ、なるべく答えを導き出そうとした。それによって、思考の複雑さを単純化してきたきらいがある。

だが、ここ最近は、なかなか文章が書けなくなった。もはや以前のようには、筆が進まないのである。

その理由が、今回の書評会をとおしてはっきりしたし、今後の文章の指針を得られた気がする。答えを導くことを留保した上で書くという姿勢でよいのである。今ではそちらの方がずっと謙虚であるし誠実であると思える。

ギンズブルグの書き方について誰かが「歯切れの悪い文章」という感想を漏らしていた。おそらく、そういう感想が一般的なのだろう。啓蒙のために書くのではなく、探究のために書くこと。そうした人々の書く行為の深淵をぼくは学んだ。

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