「書評」をめぐる雑感

書評は、普段あまり気にとめていなかった書き物の一つだった。

書評は、研究紀要などに掲載される「書評論文」を別にすれば、基本的には、原稿用紙2枚から5枚程度だろう。1200字程度なら、流しながらすぐに読める。だから、文章の質にかんしては、これまであまり気にとめてこなかった。ある程度、本の内容が紹介され、最後に少しだけ批評めいたことが書かれている。そんな程度のことしか感じずに読んでいた。

書評とは一見すると簡単そうな書き物の類だ。1200字という字数は、読む側からすればあっという間だ。その発想からすれば、書く側も、あっという間に1200字程度は書けるはずであるし、そのようなあっとう間に書いたとしか思えない文章も多いことは事実だ。

しかし、書評される対象の本はどうか? 多くの場合、本ができるまでには多くの時間がかかる。原稿を仕上げる時間。それを本にするにあたっての諸々の時間。多くの場合、本は、簡単にできない。そのことを考えれば、書評も簡単に書けないのではないか。

書評とは、まずもって評する本にたいする、応答である。

その応答は、限られた字数で行なわなければならない。たとえば300頁ある本にたいし、2頁程度の文章で応えるとなれば、むしろ評されているのは本というよりも、評者の方であると言っても過言ではない。

そのような心構えで、最近書評に注意を向けているのだが、書評の質は本当にピンきりと言うほかない。今日はある本のブックレビューを一瞥したが、評するべき本とはおよそ不釣合いな文章が散見されるのだ。大江健三郎の『沖縄ノート』にたいするレビューが載っていたが、書いてあることは表層的な感想の域を出ない。有名な本だから、きっと多くのレビューの歴史があると思うが、これだけ重要な本にたいし、定型的批判しか書けない評者の「安易さ」は何なのか。

短い文章であればこそ、書き手の力量が問われる。

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