エルミールとラム酒

パトリック・シャモワゾーの短編「七つの幸福のエルミール」(Elmire des sept bonheurs)を読む。ジャン=ジャック・ラグアリグ(Jean-Luc de Laguarigue)の写真が併載された、視覚的な書物。1998年にガリマール社から刊行。 マルティニックには、数多くのラム酒蒸留工場と銘柄がある。たとえば、マルティニック南部の銘柄には、「トロワ・リヴィエール」(Trois Rivieres)、「ラモニー」(La Mauny)、太平洋側の銘柄には「J.M.」、「サン・ジェームス」(Saint-James)、「クレマン」(Clement,以前紹介した、ティエリー・アレの展覧会のさいのアビタシオン・クレマンのラム酒)、中部には「ディロン」(Dillons)など。ほかにも数多くの銘柄が存在する。(日本に向けて、そのうち幾つくらいのラム酒がマルティニックから輸入されているのか分からないが、「トロワ・リヴィエール」、「サン・ジェームス」あたりは、見かけたことがあるように思う(とても高いけれども)。こちらでは、市場、食料品店からスーパーにいたるまで、生活圏内にいつでもあり、それほど高くない。生活に比較的身近なところにある、と言ってもよさそうだ。)

そうした数ある銘柄の一つに、「サンテティエンヌ」(Saint-Etienne)がある。マルティニック北東部グロモルヌのラム酒蒸留所で作られていた(1988年に閉鎖)。シャモワゾーの物語は、このグロモルヌの蒸留所で作られていた「サンテティエンヌ」をめぐる不思議な話であり、作家はこの話を、蒸留所の元労働者とその周辺の家族への取材をもとに書いた。したがって、併載されている写真は、グロモルヌの人々の肖像と、サンテティエンヌ蒸留所周辺の風景である。語り手は、製造所の元労働者。物語は、語り手がサンテティエンヌのラム酒の秘密を語るというもの。語られるのは、サンテティエンヌのラム酒の作り方それ自体ではなく、このラム酒をめぐる「奇跡」である。その「奇跡」とは、ラム酒を飲んだものが「聖女」を視るというもの。工場内の労働者が「彼女」を視たのをきっかけに、この「奇跡」がやがてグロモルヌ、そしてマルティニック全土に広がり、さらには周辺の島々へと波及するまでの流れが、クレオール語から着想されたような、日常的な言葉遣いや比喩表現をとおして、巧みに語られる。このヴィジョンのなかの女性の名は、いつの間にか「エルミール」ということになり(語り手が死ぬ間際に「彼女」を視たらしき友人の口から聞き取った)、「七つの幸福をもたらすエルミール」とか「あらゆる恩寵をもたらすエルミール」と呼ばれようになる。エルミールを視るものには、この世のものとは思えない至福のときが一瞬ではあるが訪れる。「聖女」の顕現をもとめて、人々は日々その時が訪れるのを(ふたたび)待ち望みながら、毎日ラム酒「サンテティエンヌ」を飲むのだ。しかし、エルミールを視る者は非常に少ないし、その姿をうまく捉えることができない。人々に至福を与えるエルミールとは、いったいどんな人物なのか?
 
勘の良い人は、もうお分かりだろう。「サンテティエンヌ」の銘柄に描かれている女性。そう、彼女がエルミールなのだ。もちろん、これはシャモワゾーの創作した物語であり、実際のところ、どこまでが本当の話なのかは分からない。ただ、シャモワゾーの想像力によるところが大きいとはいえ、エルミールに類する伝説は、グロモルヌ周辺に存在する(存在した)ように思える。仮に存在しなかったとしても、シャモワゾーの物語は、ラム酒をめぐる伝説として、マルティニックの人々の「心性」に根拠をもつものであるだろう。ようするに、この伝説譚は、「現実効果」(それが「現実」であると思わせる効力)を生み出すかぎりで、この地域の歴史、風習、文化等々との深い絆をもっている、と感じられるのである。この短編は、シャモワゾーの数ある長編のなかには埋もれてしまう小品だが、読み物としても、思索の対象としても、十分読むに値すると思う。聖なるものの顕現の奇跡、という伝説の形態はおそらく世界各地に散見されるだろう。シャモワゾーの物語は、民間伝承の発生とその過程を想像させるところに、つまりどのように伝承は人々のうちに生まれ、波及してゆくのか、ということを考えるのに、きわめて意義深い点があるように思える。この場合、エルミール伝説の作り手は、サンテティエンヌ製造所の人々であり、より正確には、この伝説に参加した人々だといえる。物語は、イジドールが幻視したのをきっかけにはじまり、その後エルミール信仰は各地に広まってゆくわけだが、当然ながら、伝説として機能するには、その伝説を信じ、語り伝える複数の人がいなくてはならない。最初に見た人物だけは伝説とはならない。イジドールの話を聞き、「私」と製造所の仲間がそれを信じ、さらに仲間の一人パウロがこれを体験したことをとおして、いっきょにこの物語は製造所全体に波及する。そして今度はそれがグロモルヌ全体に広がり、さらにマルティニックを超えて、近隣の島々まで物語は語り継がれる。このようにたどりなおしてみるとき、シャモワゾーの話は、伝説の形成のダイナミズムを示している、と思われるのである。ところで、グロモルヌの蒸留所は一度閉鎖してしまったが、「サンテティエンヌ」の銘柄はその後復活し、現在も別の地域で作られている。「エルミール」のラベルは、昔は白ラムに貼られていたようだが、現在ではどうなのだろう。少なくともまだ見つけ出せないでいる。

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