1959年12月

少し前のことになるが、12月21日に「1959年12月事件」(événements de décembre 1959)の50周年を祝う講演会を聞きに行った。「1959年12月事件」はフォール=ド=フランス市で20日から22日にかけて起きた暴動である。本国人の運転する車がマルティニック人のバイクを倒したことをきっかけに、共和国機動隊(CRS)が出動し、現場にいた群衆を力ずくで解散させようとした。これに怒った住民(とくに若者)が応戦し、その後、3日にわたる暴動へと発展する。この事件の過程で、3名の若者が落命した。この事件は、その後、アンティーユ=ギュイヤンヌ戦線(FAG)やマルティニック反植民地主義青年同盟(OJAM)の結成のきっかけとなったことから、マルティニックの戦後史を考える際のターニングポイントと見なされるようだ。登壇者の一人ルイ=ジョルジュ・プラシッドは、この講演会にあわせて、『マルティニック1959年12月暴動』を出版したばかりであった(「1959年12月事件」を40年近く調査し続けてきた著者の研究書とあって大変充実している)。この講演会のメインはアラン・プレネルであった。1956年からマルティニックの教育行政官を務めたプレネルは、若者たちの死を悼み(亡くなった一人であるマラジョは当時15歳の少年であった)、この暴動にかんし若者たちの行動を擁護する発言をしたところ、この発言が「反体制的」と見なされ、事実上、フランス本国への強制退去処分となる。「アラン・プレネル事件」は、ドゴール体制で強まる弾圧例の一つとして、しばしば言及されることを後から知った。そのような次第でアラン・プレネルは、人種差別がいまだに根強かった時代にあって、植民地の側についた本国人としてマルティニックでは記憶されてきたようであった。この催しには、1000名以上が参加したように思う。エドゥアール・グリッサン、パトリック・シャモワゾーも招待されていた。1月10日に74条をめぐるconsultationが控えているため、この催しの最後の方は政治集会といった趣であった。1月10日まであともう少し。マルティニック住民は73条、74条、どちらを選択するのか。

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