古本屋めぐり


日本に戻ったらしてみたいと思っていたことの一つが、古本屋めぐりだった。高円寺、荻窪にお気に入りの本屋さんが数軒ある。いろいろ買ったが、ほとんどは実家においてきた。思いつくままにあげてみると、夏目漱石『文学評論』(講談社学術文庫)、『金子光晴エッセイ・コレクション』(ちくま文庫)、鈴木志郎康『攻勢の姿勢』(書肆山田)、川田喜久治『世界劇場』(東京都写真美術館図録)、ウラジミール・プロップ『魔法昔話の研究』(講談社学術文庫)、『アンドレ・ブルトン集成4』(人文書院)、ジルベルト・フレイレ『大邸宅と奴隷小屋』(日本経済評論社)、ウォーレス『熱帯の自然』(ちくま学芸文庫)、ボルヘス『無限の言語』(水声社)、ボルヘス『論議』(同上)、あとは新従属派のフランクとサミール・アミンの本を数冊、平凡社から20年前に出ていたヒストリー・オブ・アイデアズの叢書をまとめて七、八冊(「歴史叙述」、「国家への視座」、「知のマトリックス」等々)。ほかにも買ったはずだが、よく覚えていない。たくさん買った分、読まなくなった本を手放すことに。そこで、森山大道の写真集を数冊手放した。講談社文芸文庫の本もだいぶ処分した。

それにしても、本は増えてゆく一方だ。我が家の本棚も、もう収納スペースは残されておらず、結局、数多くの本は今でも読まれないまま、本棚を飾っている。それでも、昔からの習癖で買ってしまうのだ(とくに古本屋さんで)。今回買ったものなど、そもそもマルティニックに持ち帰らない本たちで、せいぜい滞在中にぱらぱらめくったに過ぎない。いま持っている本だけを、ゆっくりじっくり読めば、それだけで一生分の読書量になるはずだ。そう考えると書きながら反省してしまうのだが、それでもいつか読むかもしれないと思ったり、いま買い逃せばまた入手が難しいかもしれない、などと思うとついつい買ってしまう。止められない癖だ。

だが、そもそも、本をぜんぶ読むというのはどだい無理な話。毎月毎月、途方もない数の本が、数多くの言語で書かれ、出版されている。それらの無数の本たちが、過去から蓄積されてきたのだ。自分の有する本など、出版された本の絶対量に比べれば、欠片ほどにもならない。だから本を求めることは、おそらく、知らないことを学びたい、という気持ちの素直な表れだろう。

そのことを改めて教えてくれたのは、管啓次郎の『本は読めないものだから心配するな』(左右社)だ。巻頭に置かれた同名のエッセイがとにかくいい。どんなに本を読んでも人は中身を忘れてしまうもの。本読みの名人だってそうなのだ。人は本を冊数で考えがちだが、「冊」ではなく、本を構成する「文」の単位で考えればよい、という発想には、はっとさせられた。たしかにそうだ。そのように考えれば、ぼくたちは数多くの本との出合いをとおして、確実に何かを学んでいるに違いない。「文」からも、本のマテリアル(装丁や文のレイアウト)からも。

もちろん、出版産業が確たる地盤をもちえない環境では、誰しもが本を自由に入手できないことも、一方で忘れてはならないことだと思っている。カリブ海では「裕福」な島であるマルティニックにしたって、本は基本的に図書館で借りるもの。数少ない本屋に並んでいるのは、パリで出版され、定価に輸送費などが上乗せされた本たちだ。古本屋はないので、少し前の本になると、容易には手に入らない。そうした場所が世界各地にあることも、「本=世界」(livres-mondes?)のネットワークを考えるとき、ぼくたちが考慮しておくことだろう。

コメント

タクランケ さんのコメント…
本は人間と同じだから、出合ったときに買わなければ、もう後では会えなくなってしまう不思議な生き物ですね。

本を処分した後で、またその本にお世話になる機会があったり、それも一度ではないという経験をすると、本は売るものではないと思ったり。他方、古本屋のお世話にはなるのですが。
omeros さんの投稿…
たしかにそうですね。処分した本も自分の記憶のなかに残っているため、持っていると錯覚し、本棚を探すのですが、最後には処分したことを思い出して後悔することが一度ならずありました。十分なスペースを確保し、すべて大切にとっておければ、それにこしたことはなさそうですね。