Pierre Bouvier, Aime Cesaire, Frantz Fanon, Portraits de décolonisés

2010年に刊行されたエメ・セゼール、フランツ・ファノンをめぐる研究書。副題にdécolonisés(訳すのが難しい)の肖像とあるように、今日において脱植民地化の言説を担う人物としてセゼール、ファノンを捉えたところから、二人の歩みを辿りなおすことを目的とした交差的伝記。近年、セゼール、ファノンはポストコロニアルの文脈で再評価される傾向にあるが、本書もその流れのなかに位置づけられる。しかし、英米圏のポストコロニアル理論とは基本的には無縁(多少紹介されているが)。歴史考証的なオーソドックスな記述に基づいている。著者は二人の思想と伝記に造詣が深いと見え、記述に厚みがあって、読み応えがある。ところで、セゼールとファノンは似ているようで似ていない。もっとも大きな違いは、ネグリチュード評価だろう。ファノンは、ネグリチュードから離れ、ネグリチュードを批判した。植民地主義批判をした二人の人物としては共通するが、二人の政治的立場や思想傾向はだいぶ異なる。この違いがあるからこそ、セゼールとファノンを同列に論じることはできなかったのではないか。だが、著者は発想を転換して現在のセゼール、ファノン再評価の流れから二人の生涯を交差的に読み解こうとしているようだ。このような読み方によって示されるのは、1930年代から60年代にいたる「黒人」知識人の知的環境や歴史的背景だろう。こういった知識は、とりわけ、30年代から60年代の環境を経験的に知らない世代にとって、何よりも有益である。理論や認識を磨くことも大事だが、歴史的想像力を養わなければ、そうした理論も意味をもたないだろう。

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