西インド諸島で出会ったラフカディオ・ハーン

最近所用でパリにいらした恒川邦夫先生が声をかけてくださり、夕食をご一緒したが、その際に最近の先生のお仕事のいくつかのなかから、刊行したばかりのヴァレリーの評論集や論文のコピーをいただいた。今日はそのうちの一つである「西インド諸島で出会ったラフカディオ・ハーン――ハーン、ゴーガン、セガレン」を読んだ。

『講座小泉八雲』第一巻に収録されているその論文は、マルティニックのゴーガン美術館の訪問記からはじまる。タヒチに渡る前のゴーガンはこの島に半年ほど滞在したことがあり、そのことを記念する美術館があるのである。しかし、事前に「本物」はないことを聞いていたので、マルティニック滞在中、ぼくは一度も赴くことがなかった。そのゴーガン美術館についての興味深い訪問記から話ははじまるのである。

その後、話はもちろん「熱帯のパリ」とうたわれたマルティニックのサン=ピエールに滞在したハーンの話題へと移り、そこから、再びゴーガンを介して今度はヴィクトール・セガレンの思想をめぐるスリリングな読解が展開し、最後にはハーンに戻るという構成だ。

恒川先生の文章は事物の具体相に寄り添いながら思索的に展開する。たとえば、ゴーガン美術館からはじまる冒頭の文章は、旅の印象記のような「軽やかさ」をもちつつも、豊富な経験に裏打ちされたしっかりした知識をもつ筆者の省察が加わることで、深みのある読み物となっている。なかでも読み応えがあるのは、ヴィクトール・セガレンをめぐる記述だろう。セガレンにとってのランボーの意味を「エグゾット」という概念との係わりにおいて丹念に説き起こされているくだりは、面白いばかりではなく、大変よい勉強にもなった。

ここのところ中国との関係を深めておられる恒川先生の関心が、じつはカリブ海とも響きあっていたことが今回の論文を読んでおぼろげながらつかめた気がした。この論文には、最後にグリッサンのセガレン論への言及も出てくる。そこで、旧植民地出身者にとっては、「他」よりも「自」の確立が急務であるという問いかけが導かれる。そして、そこからセガレンを「他」の称揚として捉えるときに、「自」や「個」に立ち戻ることの契機がしばしば忘れられがちになることについての指摘がある。これは、「他者性」をめぐる議論への警鐘ともなっており、考えさせられる指摘であった。

この読書をとおして自分に課すべき宿題はひとまず次のことである。セガレン論を収録したグリッサンの『詩的意図』を再び読むこと。具体的には、恒川先生が引用されているセガレン論のくだりが、『詩的意図』の全体の構成とどのような関係にあるのかを見定めるという課題である。

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