Jacques Lacarrière, Ce que je dois à Aimé Césaire, Bibliophane Daniel Radford, 2004

エメ・セゼールにかんする著作は次第に増える一方だ。2008年に亡くなったのが拍車をかけているに違いない。ロミュアル・フォンクーアは『エメ・セゼール』という浩瀚な伝記を出したばかりであるし、当ブログで紹介した『セゼールとファノン』も今年になって登場した本だ。フォリオ文庫ではセゼールの詩集『奇跡の武器』についての解説本も出た。どれもそれぞれ個性があって面白いのだが、なかでも今回紹介したいのは、少し前に出版されたジャック・ラカリエールの『私がセゼールに負うもの』である。80頁ほどのこの小著は、セゼールとの親交の深かった画家ウィルフレド・ラムの挿画を数点含んだ、きれいな本だ。セゼールが存命中の2004年に出版されている。著者のラカリエールは古代ギリシアの高名な専門家だ(中井久夫訳『古代ギリシアの言葉』の著者)。この人が「セゼールに負うもの」とは何だろう。それがこの本を手にとったきっかけだった。読み始めてただちに引き込まれた。本の主題は、セゼールの『帰郷ノート』だ。著者は、この長編詩との出会いやこれに受けた衝撃を回想しながら書いている。ラカリエール青年にとって、『帰郷ノート』は根源的な読書体験だった。1947年、パリのカルティエ・ラタンの書店で偶然手にしたこの詩は、ほかのすべてに増して重要な作品であり、彼の言語に対する態度を変えてしまうような、啓示的体験だった。その詩からかつて受けた驚きを言葉にしようとつとめながら、著者は慎重に、正確に言葉を選ぶ。たとえば、こんな風に。

ぼくの言葉は、『帰郷ノート』の言語を正確に語るには、とりわけ精確に語るには不十分だ。精彩を放つ記述、鋭敏なイメージ、夢想の結合、メタファーの乱舞、頭韻法の歓び、形容詞の燃え盛る輝き……。では、爆発する詩なのか。いや、どちらかといえば、噴火する呪文、いうなれば緩慢な爆発だ。なおかつ、秘められた記憶を解放する告白と咆哮の表出だ。

『私がセゼールに負うもの』は、セゼールを読むことの喜びについて純粋に教えてくれる、貴重な本だ。時流に流されないこうした本こそ本当は翻訳されるべきだろう。

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