詩的なるもの

先月の話題ですが、『思想』9月号をめぐって様々な反響がありました。「高度必需品宣言」のメッセージは、たしかに届くべき人に届いているという感触を得ました。この声明文に応答くださった各方面の方々に感謝いたします。日本語でのこうした受容と関心について、宣言文の著者たちに近いうちに伝えなくてはならないと思っています。

個人的に嬉しかったのは、詩の方面で関心を寄せていただけたことです。吉田美和子さんが個人誌『木槿通信』第28号の読書欄で取り上げてくださいました。ネット上では読めないものですので、一部を紹介します。

アンティーユって、どこだ。グアドループとマルティニックを指す呼称らしい。そんなことも知らない無知なる私にも、この「宣言」は仰天である。すごい、っていうことは、あるんだな。という愉快な驚き。詩が生きているという事態の不思議。(……)「資本主義が必要品の買い物かごに自分を切り詰めるこの消費者というフランケンシュタインを作り出した。」 ――「宣言」は、自立的な産業基盤を持たずすべての生活必需品をフランス本国から運ばざるを得ない植民地経済から「人間的に」脱出しようと呼びかける。それは産業の創出や政治的自立や芸術への欲求だ。人々の協働だ。資本主義の強欲を拒否する姿勢はエコロジカルな社会への提案でもある。「労働価値をある種の虹へ変える」とは、宮沢賢治の「農民芸術概論」を思い起こさせるが、この「宣言」の向こうには何万人というゼネストに参加する民衆がいて、カリブ音楽のリズムがとどろき、島影に千個の海がきらめいて沸騰しているのだ。その現実に繋がろうとする高らかな提起である。(……)(吉田美和子「宣言は千の海のきらめき/『思想』9月号特集「『高度必需』とは何か――クレオールの潜勢力」より)

そして、現在発売中の『現代詩手帖』10月号では、「詩誌月評」を担当されている水島英己さんが取り上げてくださいました。やはり一部を紹介したいと思います。

(……)この雑誌の特集となっているのは、ゼネストのときに公表されたアンティーユ(グアドループ島とマルティニック島のこと)の知識人9名(その代表者で、宣言の主要な著者はマルティニックのエドゥアル・グリッサンとパトリック・シャモワゾーと推測されている)連名の「高度必需品宣言」と銘打たれた宣言についてである。この題を最初に見たとき私は途方にくれた。ゼネスト支援の宣言だって? 高画質のハイビジョンテレビのことじゃないのか? でもこの概念は次のような文脈のなかで使用され、豊かなひろがりと深い意味をもつものだということがわかる。以下すべて中村の訳による。
「散文的なるもの」が「詩的なるもの」の育成へと開かれず、「散文的なるもの」が自己目的化して消費される場合、われわれは自分たちの生活の希求とその感覚的欲求が「購買力」や「日々の出費」のようなバーコードのうちに安住できるのだと思い込もうとする。そしてより危険なことに最後には、このもっとも容認しがたい貧困に対する有徳の管理運営が人間的あるいは進歩的な政策に属するのだと考えるようになる。したがって緊急になすべきは、「最低必需品」を別の消費物資の部類、すなわち「高度必需」にはっきり属するような部類に移すことなのである。
ここから次のような闘争指針の一つが宣言される。「散文的なるものの洞窟のなかに留まっているうちは、われわれは散文的なるものに打ち勝つことも、これを克服することもできない。必要なのは、詩的なるものへ、減少と節制へとこれを切り拓くことである。今日のきわめて傲慢かつ強力ないかなる機関(銀行、多国籍企業、大規模小売業、健康請負業、携帯通信)でさえ、われわれの試みに逆らうことはできない。」これを時代錯誤や空想的と言ってすますことはできない。「散文的なるもの」=「購買力」「日々の出費」、最低必需品の専制に抑圧されてあることに対して「詩的なるもの」=勝ちとられた減少と節制の生活を生きることで、もっと高貴でもっと多くのことを求め、もっと晴れやかであることを目指すこと。この対立と克服の宣言の意味を中村隆之は次のようにとらえている。「このラディカルな展望を通して、生産と消費の無限連鎖のなかに投げ込まれた現代的生活から脱却することをグリッサン等は提案する。現代的生活を成り立たせる自動車の放棄や輸入食品の購買拒否は確かに非現実的である。それでも声明文は、ガソリン代や最低必需品の値下げ要求を現実主義的に正当化する以上に、思想の非現実性を通じてハイパーマーケットや石油会社そのものを撃とうとする。それが高次の必要を求める力、すなわち詩学の力なのである。」そして、この宣言に呼応する沖縄からの報告。「カリブ海の島と東シナ海の島、フランスの植民地と日本とアメリカが合作した植民地、歴史的条件も地政学的位置も異なる二つの島にもかかわらず、いや異なるゆえにこそと言うべきなのかもしれないが、ねじれながら繋がる遠い声はグローバリゼーションの夢魔の近傍で聞きとられる」と、その「声」を同誌に仲里効が展開している。これも刺激的であった。「高次の必要を求める力、すなわち詩学の力」が沖縄の今の現実のなかで確かに働いていること、それが「旧宗主国」アメリカ?日本?からかつてとは違う「自立」「独立」の切実な動きの潜勢力となっているということ、など。さて、政治、経済のなか、言い換えれば最低必需品のなかに「詩的なるもの」が侵入し析出するゆたかで自立した「高度必需品」としての作品を読みたい、というのが長い前置きの趣旨である。(水島英己「呼びかけられている」より)

水島さんのものは詩誌月評ですので、この後、新城兵一「内破」、麻生直子「海辺のレコード――キラーウェーヴ・2010」と詩評が続きます。すぐれた詩人たちがいることを確信させる詩評です。続きは『現代詩手帖』10月号でどうぞご覧ください。


追記
その後、宣言文の著者たちに現物を発送しました。著者の一人であるオリヴィエ・ピュルヴァール氏によると、2011年の1月から3月にかけてマルティニックの大学図書館で2009年のゼネストを記念する展示が行われるとのこと。海外からの反応として、『思想』も展示されるかもしれません。また、宣言文の中心人物であるパトリック・シャモワゾー氏はその後も政治的文章を発表し、フランス海外県の状況に介入しています。つい先日「メタ・ナシオン宣言」という興味深いタイトルの声明文を「フランス・アンティーユ」に発表したばかりです。
                                                    2010年11月記

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