カリブは周縁か

26日、立命館大学言語文化研究所主催の催し「トランスアトランティック―トランスパシフィック」の第4回「カリブは周縁か」にパネラーの一人として参加した。司会は、西成彦さん、パネラーは久野量一さん、鈴木慎一郎さんとぼくである。

結論からいうと、とても充実したセッションだった。もちろん、ぼくの発表はのぞいた話。西さんの鋭いコメント、話題のつなげ方は、ただただうなずくばかり。久野さんの発表は、キューバ文学を「肯定の詩学」と「否定の詩学」という枠組から捉えるもの。刺激的だった。鈴木さんの報告は、これもまた本当に面白かった。ジャマイカの話で、最近、麻薬取引でアメリカに身柄を引き渡された、キングストンの「民衆的英雄」をめぐるもの。時間が続く限り、三者の話を聞いていたかった。

ぼくは何を話したのか。もはやあまり憶えていない。どうでもよい話だ。だが、発表を準備していて、はっきりと自覚したことがあった。それはなぜぼくの研究の動向がこうもぶれるのかということ。

文学研究者ということなら、文学を徹底的に学べばよい。とにかく、作品を読み続ける、それしかない。もちろん、文学理論も知っているとよい。

はたしてそうか。あらゆる書かれたものは、重層決定されているのではないか。植民地の文学はその構造が見えやすい。グリッサンは根本的に詩人だ。しかし、小説も書いた。戯曲も、文学論も書いた。さらには、社会評論を書き、政治的発言もした。つまり、「文学」の枠にはとどまらないのだ。いや、とどまれないのだ。セゼールは、詩人であり政治家でもあった。両者の関係はどこまで切り離せるのか。セゼールの「植民地主義論」と、「帰郷ノート」はどんな関係にあるのか。

ぼくの考えでは、文学を読むことは(文学に限定されるものでなく、あらゆる書かれたものがそうだと思っているが)、これを精読することは、テキストを成り立たしめる社会的・歴史的条件をも読み取ることである。テキストの書かれた社会と時代を考慮しなければ、テキストの現在性を測定することも難しいだろう。そのためには、結局、人文科学全般におよぶ教養を身につけなければならない。結局、どんな分野を専攻していても、教養は避けてとおれない。

そういうわけで、ぼくはいま、局所的に、第三世界の経済理論やグローバリゼーション論に関心をもっている。マルティニック、グアドループの作家の作品を読むにあたって、この視点もまた外せないと思っている。海外県問題を考えるには、アフリカの脱植民地化運動の経緯を知る必要がある。そう簡単にはいかないのだ。

コメント

castorp さんの投稿…
まったくもっておっしゃるとおりだと思います !
omeros さんのコメント…
ありがとうございます!castorpさんにそうおっしゃっていただけると、とても心強く思います。