冬のパリ

一週間の短い日本滞在を終えてパリに戻ってきた。この滞在中にお会いしたかった人、訪れたい場所もあったけれども、そこは我慢することにした。今回の滞在の目的は、立命館大学での報告だった。その後、東京に数日滞在。気になる本をいくつか買ったりもした。関西空港からシャルルドゴール空港に到着したのは18時ごろ。予定よりも1時間ほど遅い到着だった。預けた荷物を手にして、いつものようにRERのB線に乗ろうとした。RERのB線に乗る時は二つの改札口があるのだが、いつも使う改札口から乗ろうと思っていたが、もう一つの改札口から乗ることにした。その方が近いからだった。重い荷物を持って階段で下に降りて、発車間際の電車に乗った。始発なので、混んでいないが、ぼくと同じように荷物を抱えた客がまばらにいた。ぼくは眼鏡をかけていた。いつもはコンタクトだが、疲れていたので眼鏡だった。荷物を座席の横に置いていた。スーツケースの上に黒いバッグを置き、手でおさえていた。車内には、顔を覆うぐらい、服を着込んだ男がいた。パリはもうそんな寒さなのだ、と思った。隣の駅で乗客が乗り、歓談するぼくたちの横に座った。それから、しばらくして、顔を覆った男が通路を通った。電話をしながら歩いていた。思ったより大男だった。それから、車内アナウンスで「パルクデゼクスポジシオン」と駅名が告げられた。そのとき、後ろからまた別の男が通路を通りかかり、物を落とした。その物を拾って渡した。しかし、男は立ち去らない。ぼくたちの足元にまだ何か落としているという仕草で探す。ぼくも手伝おうとする。何もない。何もないのに、探している。アラブ系の若者だ。何か変なことを口にしているのが聞こえたけれど、よく聞き取れなかった。早く立ち去ってほしいと思っていると、一瞬にしてその場から走り去った。何が起きたのか。誰かの「バッグ」という声が聞こえた。気づけば、スーツケースの上の黒いバッグが消えていた。「やられた!」と思った時は、すでに遅かった。なかには、あらゆる貴重品が入っていた。パソコンはもう耐用年数ぎりぎりだったが、この4、5年分のデータが入っていた。そういうときにかぎって、決して普段は持ち歩かない、多めの現金が奪われた手荷物のなかには入っていた。

極度の疲労と、不測の事態に、もはや何をすべきかわからなかったが、とりあえず、近くにいた乗車客の勧めで、北駅の警察署に被害届を出し、奪われたカードを止めることにした。警察では、調査官の事情聴取を受けた。同じ席に乗っていた男性が、証言者として同行してくれた。その人の話では、バッグを奪ったのは、服を着込んだ男の方だった。どちらだがわからないが、ナイフで刺すぞ、と脅していた、という話だった。警察署を出たときにはもう9時過ぎだった。

彼らは奪ったバッグをどうするのだろうか。彼らにすれば、思った以上の収穫だろう。手荷物に何が入っているかはわからないのだから、彼らも彼らで「賭け」に出ているのだろうから。しかし、奪われる側のことは何も考えていないに違いない。彼らにとっての問題は、奪えるか、奪えないか、ただ、それだけだ。そして、彼らはおそらく今回が初めてではない。何度も、同じ手口を使っているのだと思う。

これまでフランス社会には、とくに行政的な面で嫌な思いをしてきたし今もしている。今回のような痛恨の痛手を負わされたのは初めてだが、こうしてぼくの身に起きたことも、やはりフランス社会の一面である。盗難や強盗を常套的に行う人々がいることは、社会構造の問題であると思う。個人にたいする盗難や強盗は、富の再分配でもなんでもない。

本当は、京都の東福寺で、Oさん夫妻と観た、燃えるような赤い紅葉の風景写真を、ここに載せるつもりだった。マルティニックで撮った多くの写真、その物象化した記憶もまた消失してしまった。

コメント

norah-m さんのコメント…
えーーー、大変な目に遭ったのですね!!
お気の毒です。他人事とは思えません。
こういう時は、物質的な損害以上に、何ともいやーな気持ちが残るものです。どうかなるべく早く癒えますように。。。
omeros さんのコメント…
お気づかい、どうもありがとうございます。以前、夏に食べた卵があたり、食中毒になったことがありますが、以来、卵が嫌いになることもなく、最近でもよく食べています。ですが、お察しのとおり、今回のことは数日経った今でも、朝から晩まで脳裏から離れず、たしかに嫌な感じを引きずっています。時間が経てば忘れられると思うのですが。とにかく、早く立ち直りたいと思います。
ban さんの投稿…
慰める言葉も思いつかないですが、またこれからも美しいさまざまな風景などとの出会いもあるでしょうし、勉強や研究もこれからもたゆみなく中村君ならやっていけるはず、それを見守る人たちは変わらずいるのだから、気をおとさず乗りきってください。
KS さんの投稿…
ほんとに災難だったねえ。怪我をしなくてよかった。でも、一方で証人としてつきあってくれる人もいる、それが市民社会。物はどうしても壊れたり無くなったりするものだ、と思って、次のステップにむかってください。コンピュータがないのは痛いと思うけれど、しばらくは手書きで! 冬のパリを思いきり楽しんでください。