テレビと作家

先日、ラファエル・コンフィアンのブログ記事がある人から送られてきた。ブログ記事は「作家とテレビ」とあり、最近、コンフィアンがエドゥアール・グリッサン特集のドキュメンタリー番組をテレビで見た率直な感想が記されていた。

グリッサンのテレビ番組はとてもよくできている。これが第一のコンフィアンの感想だ。と同時に、グリッサンがテレビ番組の対象となっているということじたいに悲しい思いがするともいう。コンフィアンにとってグリッサンは何よりも文学の人だ。歌手や、画家ではない。歌手や画家ならば、テレビに出て歌えばよいし、その作品を示せばよい。視聴者は直接テレビから「歌」や「絵」を受け取る。だが、文学作品はどうか。言語芸術は、スクリーン上では再現できない。グリッサンをテレビで見た視聴者がいったいグリッサンの文学作品にどれだけ直接触れようとするのだろうか。『マルモール』や『奴隷頭の小屋』(ともにグリッサンの小説)といった難解なテクストを視聴者が読もうとするのか……。

そのように述べるラファエル・コンフィアンは、いまやマルティニック文学の「顔」の一人だ。その作品量は、ぼくの知る限り、マルティニックのみならずカリブ海の海外県の作家で一、二を争う。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。コンフィアンにはおそらく自分がマルティニックの、カリブ海のフランス語文学を支えているという自負も少なからずあるだろう。

コンフィアンは、文学は「人文学」だという。作家の仕事道具は言語である以上、文学の次元は、歴史学、社会学、人類学、精神分析学、そして何よりも言語学を含みこむという。そうした複数の要素を包括する文学が、テレビによる紹介で事足りるはずがないし、そうであってはいけない、とコンフィアンは考えているようだ。

真っ当な意見だと思う。もちろん、コンフィアンの意見を大作家への妬みだと俗っぽく捉えることはできる。いずれにせよ、重要なのは、この作家が文学のことを大真面目に考えているということ、文学に大きな可能性を感じているということだ。その姿勢が好きだ。

カリブ海のフランス語文学は、「クレオール」文学の旗手として颯爽と「世界」に登場したコンフィアンやシャモワゾーの後がなかなか続かないという向きがある。コンフィアン、シャモワゾーはともに50年代生まれの作家だ。若い作家たちは、この「クレオール」世代の目覚ましい活躍の影に隠れてしまっているのだろうか。

コンフィアンのブログ記事では、最近のマルティニックで頻発する若者の殺人事件を知るには、新聞記事や論文などを読むよりも、アルフレド・アレクサンドル(Alfred Alexandre)の小説『殺人街』(Les villes assassines、2010)を読んだ方がよいという。Bord de Canalという小説で話題になったマルティニックの若手の小説家だ。ほかにも、ぼくの方で全然フォローできていない若い作家がいろいろいるに違いない。その意味では、グリッサンの主宰するカルベ賞が今後どのような作家ないし作品に授与されるのか、ということも興味深いところだ。

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