「1961年10月17日」事件

(Idir)

アルジェリア戦争末期にパリ市街で当局の弾圧により数十人のアルジェリア系住民が殺された事件は、その出来事の日付をとって「1961年10月17日」と呼ばれる。そうした事件が「存在した」ことをぼんやりと知っている程度の人間にとって、この悲劇から数えて50周年目にあたる今年の10月10日に行われた記念集会は、「1961年10月17日」について積極的な関心をもつ良い機会だった。

この事件は一般に次のように解されているようである(以下は『マリアンヌと植民地』などで知られるフランス植民地主義の研究家ジル・マンスロンの説明の受け売りだ)。アルジェリア戦争末期の1961年1月8日の国民投票でアルジェリアの民族自決権が承認され、フランス政府とアルジェリア民族解放戦線(FLN)とのあいだで和平交渉が始まった。だがドゴール政権では、和平派の法務大臣エドモン・ミシュレが8月23日に辞職し、その後、拘留中の「アルジェリア人」の状況は悪化した。ドゴール政権内では、FLNとの交渉に反対する勢力があった。首相ミシェル・ドゥブレ、内務相ロジェ・フレイ、パリのセーヌ警察署の署長モーリス・パポンがその代表格だといわれる。

事件の発端は1961年10月5日、モーリス・パポンがパリおよび郊外のアルジェリア系住民に対して夜間外出禁止令を発令したことにあった。パリのアルジェリア系住民の大半はFLNを支持し、FLNに資金提供を行う人びともいた。戦争継続派は、フランス国内でもアルジェリア戦争を遂行しなければならないという意識をもっていたようだ。こうして10月17日、FLNの呼びかけのもとデモ行進が行われるが、このデモは激しい弾圧を受け、セーヌ河に数十人ものひとが投げ込まれ、溺死したという。この事件の死者数は軍事機密となっており正確には把握されていないとのことだ(ちなみにグアドループの「1967年5月」事件も同様だ)。

この事件について、アルジェリアの作家カテブ・ヤシンが書いた詩を試みに訳してみよう。

フランス人民よ、きみはぜんぶ見た
その目でぜんぶ見たんだ
きみは見た われわれの血が流れるの
きみは見た 警察が
行進する者たちを殴り倒し
セーヌ河に投げ込むのを
赤く染まったセーヌ河は
何日も何日も
吐きつづけた
コミューンの人民の顔に
この殉教した肢体たちを
パリ市民は想起しないのか
自分たちの革命を
自分たちの抵抗を
フランス人民よ、きみはぜんぶ見た
その目でぜんぶ見たんだ、
さあ話すのか?
さあ黙るのか?

今回の記念集会で、その熱い雄弁で会場を多いに沸かせたジャーナリストのエドゥイ・プレネルがこの詩を紹介した。プレネルの声を介してカテブの詩に触れた以上、この呼びかけを無視することはぼくにはもうできない。(カテブ・ヤシンもエドゥイ・プレネルもエドゥアール・グリッサンの友人だった。)

(Edwy Plenel)

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