ある「思想の言葉」から

岩波書店の月刊誌『思想』の巻頭を飾る「思想の言葉」。この「思想の言葉」だけ岩波書店のwebで読むことができる。そこで偶然出合ったのが、『思想』2008年8月号掲載の谷川渥の「クレオール・ノート」(こちら)。マルティニック滞在をめぐるエッセイだ。こんな言葉が気になった。

だが、クレオール性とは、つまるところ何だろうか。たとえば、クレオール料理。それは、この島の人工的な政治経済的システムを形式と素材とにおいてそっくりそのまま反映した料理にほかならない。形式はあくまでもフランス料理である。素材はさまざまな魚介類や果物類など原地産のものももちろん多く使われるが、バターと塩とワインと、そしてサトウキビを原料とするラム酒を多用する料理法は、フランス式というほかはない。それが南国風、とはつまりアフリカ風ないしインド風にやや変容した、いささか奇妙な植民地料理である。 
 フランス料理を楽しむように、この島でクレオール料理に舌鼓を打つこと、それはたしかに喜ばしくも貴重な経験ではあろう。しかしクレオールたることに世界文明的な未来を見るといった気分には、私はとてもなれなかった。そもそも小アンティル諸島からして、その実態は、フランス領、イギリス領、オランダ領、アメリカ領といった、いまなおまぎれもない西欧の植民地の島々なのである。クレオールという言葉を、ぎりぎりのディアスポラとしての痛切な自覚のもとにではなくして、何か輝かしいものとして使うことができないのは、ポストコロニアルなどという言葉を気楽に口にせることができないのと同様である。
そういえば、最近パリでお目にかかった日本文学の先生は、今ごろマルティニックにいらっしゃるはず。どんな印象をおもちになるのか、後ほどお話をうかがいたい。

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