やはり詩だ

気づけば、4月の最後の日である。帰国したのがちょうど一月前だった。何もかもあっという間だった。マルティニックでの1年間、パリでの2年間もずいぶん昔のことだったような気がする。この間、ご無沙汰していた友人、先生に会った。歓迎を受けることもあって、そういうときは本当にうれしかった。

友人や恩師に会うのはいつでもうれしいことなのだが、他方で、日本の時間、生活リズム、都市環境に否が応でも慣れることが強いられ、それがなかなか辛いのだ。違和感、異質感がどうも染みついてしまったらしい。

そんな日本社会へ適応できない生理を、さわやかに肯定してくれたのは、昨日の明治大学でのシンポジウム「詩は何を語るのか」だった。新井高子、中村和恵、山崎佳代子、管啓次郎というメンバーで、詩について、いま思うことを語った会だった。時間通りという感覚を忘れかけているために、最初の、新井さんの話を聞き逃してしまったが、残りの三人の発言には耳を澄ませて聞いていた。司会の管さんの話はいつもながら見事だった。詩との出会いは、野生動物との出会いに似ている、という発言には、ハッとさせられるものがあった。(そういえば、『ピエリア』で亀山郁夫氏も「イヌに帰らなければならない」と言っていた)。

なかでも印象深かったのは、中村和恵さんの話だった。希代の語り部と見た。オーストラリアの先住民についての話をとおして、私たち(ニホンジン?)が忘れてしまった術として、「土地を読む」ということの大切さを何度も語っていた。なるほど「土地を読む」か。ぼくはこの言葉遣いにいたく感心した。基本的には視覚的なイメージが強いのだろう。土地をエクリチュールとして捉えるわけだ。だとすれば、「土地を書く」のは誰なのか? 先住民世界ではもうひとつの文化や文明が語れるが、クレオールが提起する問いは、自分たちには「読む」土地がないということだった。土地はすでに書かれている。地名を命名したのは、植民者=支配者なのだから……。などなど、つまらないことだが、「読む」という言葉からいろいろと触発されたのだった。そうしたことをご質問したかったが、所用のため途中で帰ってしまったので、かなわなかった。

やはり詩だ、という思いを新たにした、充実した時間だった。


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