別冊太陽『中上健次』


「別冊太陽」の没後20年記念特集号「中上健次」を読む。中上健次は学部時代に一度はまり、大学院時代にも中上で博論を書いていた先輩がいたので、勉強を始めてからはずっと気になる作家であり続けたものの、全著作を読破しないままできたために全体像については把握しきれないところがあった。とくに『異族』に象徴される「晩年」の未完の一連の著作は気になるところだった。

冒頭に置かれた、柄谷行人の「中上健次の死」。これは中上の「右」から「左」への「転向」をノーベル文学賞への中上の意識(つまり世界の読者に向けた意識)のうちに見た、とても明快な文章。なるほど、現在の柄谷氏にはこのように中上の姿が見えるのかということを知る上で面白い。そのほか、文芸評論家を中心に多くの書き手が文章を寄せており、すべてに眼をとおしたわけではないが、1990年代の中上作品の行方について、やはり否定的な見解を示す人がおり(或る意味で柄谷氏もそうだし、より明確なのは大塚英志氏)、中上健次の可能性をどこに見るのか、ということをめぐって興味が尽きない。

私は、まだ晩年の中上作品に集中的に取り組んだことがないので、あてずっぽうでしかないけれど、中上の後期作品をもっと積極的に評価する方が面白いのではないかと思っている。これは直観にすぎないけれども、中上のアジアへ向かう方向性には、「大きな物語」や「天皇制」などの「危うさ」だけでなく、むしろそれを突き崩すような過剰があるのではないかと想像している。この直観の根拠はグリッサンのフォークナー論にあり、そのあたりのことを『フォークナー、ミシシッピ』の解説に若干織り込んだ。

監修者である高澤秀次氏の「中上健次の軌跡 その生涯と作品」には今回多くを学ばせていただいた。池田雄一氏と佐藤康智氏が中心に見開きで作品解説をおこなっているが、前者は批評的介入が強くて個性的であり、後者は作品世界に丁寧に寄りそうという姿勢で、その好対照も面白かった。「クレオル文学」と中上健次の文学世界との接点については、文字と口承のせめぎあいという重要なテーマで、管啓次郎氏が文章を寄せていることも付け加えておきたい。また、中上健次の全集未収録エッセイ「角材の世代の不幸」も収めている。

コメント