キルメン・ウリベ

現代バスク文学の新星キルメン・ウリベ(1970年生まれ)の小説『ビルバオーニューヨークービルバオ』(金子奈美訳、白水社)が最近出版された。バスク語からの翻訳。それだけでもすごいのに、今週、本人が日本にやってくるそうだ。バスク文学について、バスクという土地、文化について、何よりも作家の作品世界について、いろいろと関心を広げられるよいチャンスだ。11月7日セルバンテス文化センターで19時より対談と朗読の予定。予約はこちらから。対談者は管啓次郎。また6日には東京外国語大学で。対談の相手を務めるのは今福龍太。どちらも非常に豪華なキャスティング。


以下、冒頭(7〜8頁)より。

魚と樹は似ている。

どちらも輪をもっている。樹のもつ輪は幹のなかにできる。樹を水平に切ってみれば、そこに年輪が現われる。一つの輪は一年の経過を表わし、それを数えていくと樹齢を知ることができる。魚も輪をもっているが、それは鱗である。樹と同じように、それを数えることで魚が何年生きたかがわかるのだ。

魚はつねに成長し続ける。僕らは違う、僕らは成熟してから小さくなっていく。僕らの成長は止まり、骨は繋がり始める。身体は縮んでいく。けれども、魚は死ぬまで成長し続ける。幼い頃は急速に、年を経るごとにだんだんゆっくりと、だが成長が止まることはない。だから鱗に輪ができるのだ。

魚のもつ輪は冬にできる。冬は魚があまりものを食べなくなる季節で、成長の速度も落ちるので、その時期の飢えが鱗に黒い徴(しるし)を残すのだ。逆に夏は、魚は飢えることがないので、鱗には何も跡が残らない。

魚のもつ輪は、肉眼では見えないけれども、たしかにそこにある。あたかも傷跡のように。きれいに閉じなかった傷跡だ。

そして魚がもつ輪のように、つらい出来事は僕らの記憶のなかに留まって、僕らの人生に徴を残していき、ついには僕らにとっての時間の尺度となる。逆に幸せだった日々は、足早に、あまりにも足早に過ぎ去り、すぐに記憶から消え去ってしまう。

魚にとっての冬は、人にとって喪失だ。喪失は、僕らの時間に区切りをもたらす。ある関係の終わり、愛する人の死。

一つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ。
 

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