風景と消費社会

今期は縁があってある大学で「芸術と社会」という講義科目を受け持っている。フランス語系のカリブ海研究を専門にする人間が「芸術と社会」というテーマで論じるなんてどこか胡散臭いのだけれど、実際、授業もやや胡散臭い感じだ。そろそろ講義も半分にさしかかろうとしているが、どうも授業の中心は、1968年前後の時代の「芸術と社会」をめぐるものになっているようだ。先週は若松孝二の追悼を兼ねて『実録・連合赤軍 あさま山荘事件への道程』のさわりを見せたりした。反応はきわめて鈍かったが、仕方ない……(こちらのプレゼンが下手なんだろうなあ)。何にせよ、連合赤軍結成に至る時代背景に、学生運動の退潮と過激化がある一方で、日本社会がこの時期に高度経済成長の絶頂期を迎えるという点には何度でも注目すべきであると思っている。この関連で、ドゥボールの『スペクタクルの社会』を差し置き、次回に取り上げようと思っているのは松田政男の『風景の死滅』であり、中平と多木の『プロヴォーク』である。前者は、中央と地方という対立がすでに1969年あたりでもはや意味を失ってしまったということ、すなわち、「郷土」の、固有の風景が消滅して、平板な都市社会化が進行しているという事態を、永山則夫連続射殺事件への着目を通じて論じている。これは、ルフェーブルの都市論ともおそらく通じるわけだし、消費社会化による風景の死滅というテーマは、そのままカリブ海のグリッサン及びクレオリテの作家たちの共通の認識であるわけだ。風景の消滅と消費社会の到来という大きな枠組みのなかで、プロヴォークを評価したのが藤田省三であるという見立てだが、一体どうなのだろう。

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