考える

「社会」や「世界」に関わる一般的な情報から基本的には隔絶した生活を送っていると、情報への接触がインターネットを通じて、しかもきわめてピンポイントに何かを知ることが多い。ツイッターもしたことがないが、ある出版社のツイッターはぼくにとっては貴重な情報源で、それでいろいろ知ることがある。

今日はそのツイッター上で篠原雅武氏のブログに関心を持ち、読んだ。昔も読ませてもらったことがあったが、今回は最近のものをまとめて読んだ。偶然なのだけれど、ぼくはこの著者と同年齢で、同世代の書き手のなかで注目している。自分の生きてきた時代を振り返る記事もあり、なるほど、自分もそういう時代を生きてきたのか、と気づかされる。

ほかにもいろいろと気づきを与えてくれる記事が多い。最近、一人でものを考えることをしていないのではないか、周りに合わせすぎなのではないか、などと、著者の考える営みを刻む記事に触れ、反省すると共に、気が引き締まる。

たとえば、最近のドゥルーズの流行について。著者は「フランス現代思想」が日本で流行ってきたことの奇妙さを率直に述べつつ、水準の高いドゥルーズ論が出ることがドゥルーズ研究業界にとっては重要なのだろうとした上で、こう述べる。

ただ、それがこの国の知的状況に及ぼす影響となると、どうだろうか?二年前の原発事故後、放射能問題は以前ほど深刻に取り上げられなくなるというのが世の風潮のようだが、これをまじめに考えている人たちからすれば、食品問題などは、むしろこれから深刻化するだろう、ということだ。そうした状況において、ドゥルーズの思想はなんか意味をもつのだろうか?と私なんかは考えてしまう。なんか意味があるのだとしたら、どう読んだらいいのか。そういう関心からドゥルーズを論じるのなら、ガタリエコロジー論との関連で読みなおすとかいろいろできるだろうし、そのかぎりでは、ドゥルーズの思想にも意味があることを提示できるかもしれない。
こういう感想はぼくもよく分かる。時代状況との関わりで思想を語ることの一貫した著者の姿勢が伝わってくる文章だ。これは、ぼくが免れうる批判でもない。グリッサンやセゼールやファノンについて考え、語っていたとしても、それ自体、いま生きている場所に直接送り返すような言葉にまで、錬成されていないと思われるからだ。

いま、ぼくは「場所」という言葉を使った。「場所」とは何だろう? ぼくはグリッサンがカリブ海という「場所」にこだわるその姿勢が好きで、それは彼の核心であると思う。ひるがえってぼくが生きる「場所」はどこか。それは東京なのだろうか。

この場所と思想との関連について、やはり篠原氏は興味深いことを別の記事で述べている。

大阪にいると、東京発の思想の地理性のなさというのがよくわかる。薄っぺらい語り口の理由は結局、その地理性のなさ、空無ゆえのことではないかと思う。僕自身、基本は京都で思想形成を遂げたと思うが、そのときは、東京との違いということにあまり自覚的でなかったが、今、大阪にいると、その違いに自覚的にならざるをえない。そういう思想の地理性について、今こそ考えなおすべきであるし、また、思想の東京一極集中ということに対しても、アンチテーゼとなると思う。
この引用における考えもまた前の引用での考えとつながっている。グリッサンは「思想の地理性」にこだわった書き手だった。しかし、グリッサンに興味を抱き、論じようとしているぼくにはやはり「思想の地理性」が欠けている、と思う(少なくとも、その自覚が)。それが東京的ということになるのだろうか。

両親の一方が中部、他方が東北出身ということで自分を「移民世代」と捉えるべきなのだろうか。それとも、多摩が自分の「ふるさと」なのだろうか。このような浮遊した立場をもっと自覚してゆくときに、篠原氏の思考に応えられるだけの何かが生じるのかもしれない。ちなみに、ぼくは中学・高校時代によくゲームをしたけれども、そのゲームの時間はぼくにとっての、埋められない大きな「空白」であり、自我はこの「空白」の自覚から生じたと、あとから思っている。

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