オクタビオ・パスの詩論


久しぶりに寝る間を惜しんで読んだ本。オクタビオ・パスの詩論としては『弓と竪琴』が有名だが、これは『泥の子供たち』に引き続く、パスの詩論で、三部作の完結部をなしている。

おそるべき教養を背景にしたその明晰な知性には、ただただ脱帽するばかり。古代ギリシャから出発してヨーロッパ近代に至る、詩の展開を数多くの詩人・詩作品を引き合いに出しながら跡付ける。

この本は、パスの詩に対する情熱と信頼の賜物であるように思える。しかも、彼はそれを感覚的・個人的に語るのではなく、人類の歴史的なパースペクティブのなかで、理知的に示すのである。(アジアにも多少目配せしているものの、基本的にはヨーロッパ文学の枠組みにある)。

著者の明快な言葉を借りれば、「偉大なロマン主義者とともにはじまり、サンボリズムで頂点を迎え、今世紀の前衛主義において黄昏時の魅惑的な光を放った」近代の「詩的伝統の終焉」を生きる現代にあって、詩はどのような命運をたどるのだろうか、ということがこの本の主題だ。

詩は読まれないし、売れないと、よく言われる。詩を取り巻く危機的な状況というのはたしかにある。しかし、パスはそれを追認するのでなく、過去を振り返ることで、実は昔から詩は売れないし、読まれてこなかったことを例証する。そのあたりの話はとても興味深い。そのことから分かるのは、詩とはもともと少数の読者のものであり、決してベストセラーになるような類のものではない、ということである。

しかも、詩人とその少数の読み手が共有するのは、言語による近代の批判である。ロマン主義、サンボリズム、前衛主義と、新しい詩の潮流が近代のなかで生じ、その潮流が運動をなして近代を批判するという運動が、詩を前へ前へと進めてきたのである。したがって詩人とは根本的に少数者であり、その少数者が生みだした新しい表現(同時代の人間の知性・感性には分からない)が、来るべき詩の伝統を作り上げてゆく、というのが近代の詩だった。

そう、たしかにマラルメにしてもランボーにしてもロートレアモンにしても(フランス文学ばかりですが)彼らの詩が、大衆性を獲得して広く読まれたというわけでなく、その詩が批評家なり大学人なりに評価されて、文学史の主流を占めていった(反逆する詩が国民文学の中心となる逆説)。もちろん大衆性と詩はフランス近代を見る限りは離反しているが、たとえばスペインにはガルシア=ロルカがいるように、この統合を図る近代詩の試みの重要性もしっかりと指摘する。

今回パスの詩論を読んで非常に共感を覚えると共に、パスに対する信頼を新たにしたのは、市場優位主義に対するパスの徹底的な批判の姿勢である。このことは再三にわたって本書で繰り返されることである。経済自由主義に対しては反対していなければならないという詩人のこの態度に、心強い援軍を得た思いだ。パスは言う。

詩は市場論理が支配する世界と効率論理が支配する共産主義国においては何の利益も生み出さない活動である。その生産品はまったくといっていいほど売れず、何かの役に立つことはない。面と向かっては言わないかもしれないが、近代的な心性にとって詩は不要なものになったエネルギーであり、時間であり、才能である。(……)にもかかわらず、詩は広まり、読み継がれている。市場に反抗しているせいで、ほとんど値がつかない。しかし、気にすることはない。詩は大気や水のように口から口へと伝えられており、その価値と有用性は計量することができない。詩において豊かな人が乞食であることもありうる。それに詩は貯蓄することもできない。浪費しなければならないのである。つまり、声に出して読まれなければならない。(175-176頁)
「もうひとつの声」とは、われわれのうちにある、詩のことである。この意味で、(小説家である)シャモワゾーの詩学もまたパスに近いものであることがはっきりとした。


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