Trans-Notation 4より

『現代詩手帖』で連載されている、岡井隆と関口涼子の共同詩「注解するもの、翻訳するもの」、2014年1月号の連載4回目より、印象的な言葉を書き写す。

ポワンディミエ近くの「沖縄の家」で、三世の女性がわたしたちに語ったことが忘れられない。わたしたちは、日本語という遺産を受け継ぐこともなく、日本人としてのメンタリティーを受け継いでいるわけでもないのです。二世の世代は多くを語り継ぐことなく亡くなりつつあり、僅かに遺された記憶も失われようとしている。自分たちの次世代は、自分たちが日系かどうかということを気に留めることもないでしょうし、そうして、「日系」という存在や意識自体も消えてゆくでしょう。
関口さんがニューカレドニアを訪れたさいに出会った「日系」の女性たち。日本人の男性と結婚したり、日本人の父をもったことから「その記憶だけを持って自分たちを日系と規定せざるをえない」人々の、親とその親に遡る、家系の記憶は、時間の経過と共に消えてゆく。……いま、大辻さんが書いた『渡りの文学』を読みながら、系譜的な過去の再構成が、父系的なテーマであるのかを考えていたところであるので、別の感覚を得るとともに、書き継いでいるエドゥアール・グリッサン論においてこのところ取り組んでいる集団の喪失というテーマにも触れてきた。

たとえば、俳句の翻訳の際よく見かける、「俳句は五七五のシラブルで訳されるべきか」という問題が重要だとは個人的には思わない。リズムと意味、文字の視覚的要素は、毎回異なった関係を結び有機的に機能しているのであって、作品毎にその関係の有様が吟味され匙加減をほどこされるべきであり、どの作品にも同じ原則を規則的に当てはめられるものとは思われないからだ。また、原文のリズムを伝えることが出来ないから詩の翻訳は不可能だとも思わない。翻訳は楽器を変えて同じ曲を演奏するようなものであり、異なる楽器であるからには、可能なこと、音色やそれにあったリズムなども変わってくるだろうが、優れた編曲において、曲の本質は確実に残ることを、音楽を愛好する者なら誰でも知っている。
なるほど、たしかにそうだ。とくに「リズムと意味、文字の視覚的要素は、毎回異なった関係を結び有機的に機能している」という一文に、深く同感してしまう。

読み進めて行くと、一見、日記形式の断片的なそれぞれの文章が、ゆるやかに有機的な関連性によって結ばれてゆくことに気づく。日系3世の女性のお母さんにあたる80歳のおばあさんとのフランス語の会話のなかで突如出てきた「コノシロ」。この単語から紡がれる最後の文の流れは、美しく、また最初の謎めいた問いかけに送り返される。核心的なことが、書かれている。

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