震災後文学論


震災前までの、政治的なことには触れないという禁欲的な文学態度は、極めてドメスティックな文学観に貫かれていたように思う。世界のなかに、日本文学を位置づけてまなざすことができたとき、文学のなすべきことはより明確になっていくだろう。

木村朗子の『震災後文学論』(青土社、2013)を読んで印象に残った言葉だ。日本列島であの震災が起き、放射能の拡散が常態化してから、早くも3年が経とうとしている。震災のとき、私はパリにいた。あの頃のショックと強烈な危機感が、この本を通じて、身体によみがえる。日本に戻ってきたとき、いろいろな違和感を感じていた。この違和感は、東京の生活になじみ、さらに昨年から得た正規の職場で働く、ようするに東京で「日常」を送るようになる私のなかで、折り合いがつかず、結局、普段は忘れている感覚となった。しかし、その感覚こそが何よりも大切であることをこの本は気づかせてくれる。

震災の経験が日本語で書かれる今日の文学のなかにどのように刻印されているのか。今日の作家は、震災後の日本と世界にどのように向き合い、表現するのか。著者の立場は明快である。しかし、立場を明確にして批評を行うには強靭な意志がいる。私は、著者の立場に共感する。そして、この本で紹介されている小説を読みたいと思う。


冒頭で引用した、「極めてドメスティックな文学観」という言葉は、日本を外から眺めることができる人が発することのできる、貴重な認識だ。おそらくドメスティックな傾向は、文学に限らず、日本の言論じたいに言いうることだ。震災後の日本が世界からどう見られているのか。この本が発する問いは重く、真摯で、切実である。

コメント