無題

今月28日から翌日にかけて福島県南相馬とその近辺に行ってきた。お世話になっている先生方が声をかけてくれて調査旅行に同行させてもらったのだった。南相馬で詩人の若松丈太郎さんにお会いし、浪江町では「希望の牧場」に行った。この二日間は私の思考に少なからぬ影響を与えそうな気がしている。

今日は月末締切の課題が終わらずに家で取り組んでいるところだが、息抜きのつもりで『現代詩手帖』4月号を拾い読みした。林芙美子に関する特集はあとでゆっくり見ることにして、関口涼子と岡井隆の連載をまず読むことに。今回は関口さんの文章が掲載されていた。先日の経験と同様、今回の文章は少なからず衝撃的だった。詩との別れがテーマであったからである(このことはすでに前回の連載でも最後の方で宣言されておられたのだが、うっかり読み落としていた)。

関口さんが「もう詩人ではない」と感じるとすれば、それはここで表明されている詩観に結びつているように思える。詩が韻律など特定の形式によって規定されるのが条件であれば、詩を書くのをやめる事は、たしかに詩人でないということだ。しかし、詩がそれ以外の条件でもってしても詩であるのだとすれば……

関口さんの文章、そこで投げかけられる問いは一貫して「喪失」がテーマであるように感じる。再生への希求? 分からない。いずれにしても、根源的な、言葉にならないものを聴診し続ける人がいなくなれば、世界はどれほど貧しくなることだろう。言葉をもたない人びとに、岸から流れてしまった者たちに、言葉でもって決死にも近づこうとする人がいなくなれば、世界はどれほど貧しくなるだろう。

「希望の牧場」では、浪江で生き残った人のうち、その後に亡くなった方の不幸を聞いた。300頭以上いる牛のなかで、そのほとんどの雄牛は去勢をしたにもかかわらず、生まれてくる命があるという。高い線量を日々浴びている牛たち。踏みとどまり、世話をなさる方々。新幹線で何時間か離れたところに住む人びとの日々の無関心。やりきれない。


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