わかること、わからないこと

いわゆる「研究」なるものに携わるようになって、数え方にもよるけれど、もうゆうに10年以上経ち、気づけば、40歳という立派な年齢にも近づいてきているため、いつまでも「若手研究者」という気分、いや、本当のことを言うと、大学院生の気分を脱却しなければならない時期にさしかかっているのだろう。いまの自分の経験では恐れ多い「査読」なるものや、それに類するものが依頼されるようになり、どうもバランスがとれない。気分では「査読」される側にあるからだ。というのも、「査読」というのは、する方もされる方も知っているとおり、必ずしも、その専門分野の人間が読むわけではないという問題が、制度的につきまとっているからだ。制度が制度として理念的に存在するためには、年齢など関係なく、純粋に、出てきたもの勝負であり、それを判断する人間も、その分野について現時点で相当の水準にあることが前提のはずだ。つまり若手でも、その分野に通暁しているならば、当然査読する側に回ることになる。反対に、年配の研究者でも、新しい研究分野に挑戦する場合ならば、年齢の関係が逆転することも十分ありうるだろう。しかし、現実には、多くの場合、そうはならず、決して専門でもない若干年上の人間が、博士課程の、有望な若手研究者を、さも、その分野についてよく知っている研究者であるように、適切な教育的指導をおこなうことが、制度的に推奨されている。

この制度の矛盾を知らない査読者はいないと思う。そうであればこそ、査読者も謙虚さをもってコメントを書くのがよいと、私は率直に思う。

それはともかく。点数を求める業績主義というのは、やはりよくない。査読の制度を支えるのも業績主義だ。すなわち、客観的に数量化されること、その数量が制度に通ったという「有能さ」によって測られる、まさしく人文学の、計測化・数値化が問いの探求を矮小化していること、そのことを身にしみて分かっている世代の人間は、抗わなければならないのではいないか。

一方で、わかることがある。他方で、わからないことがある。私がかぎられたなかで目にするのは、どうも、わかることばかりだ。わからないことに挑戦するという姿勢。すなわち、人生を賭ける、容易に答えが出ない問いの在り処に突き当たっている文章を、私は読みたい。深い問いを見つけている文章、ただ、少しでもそこに触れていればいいから、そんな文章を読んで、震えてみたい。

いま翻訳しているグリッサンの文章で、それこそ10数年前に読んだ小説を訳しながら、震えた。訳している章の結末が、信じがたいものだった(すっかり忘れていたのだ)。なぜそんな結末になるのか。一語、一語、訳者として付き合いながら精読していても確証は一切得られない。文学を論じるとは、そういう経験ではないだろうか。たとえば、その結末が読み手に深い傷跡を残すにもかかわらず、その傷をどのようにつけられたのか、読み手はわからないという経験。問いの深度こそが、文学経験を言語化する方途だと考える者にとっては、わかることからわからないことへ移行するときにこそ、本当の問いが生じるのではないかと思うのだ。

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