「研究」と「階級」

「研究」と「階級」。この関係はけっこう大きいのではないか、と実は思っている。単純な話ではない。私が、もっとも思い入れを抱いてその著述と向き合っているエドゥアール・グリッサンという、カリブ海のフランス領マルティニック島生まれの黒い肌をした作家にしても、自身のフォークナー論のなかで、植民者の文学のなかに偉大な文学は存在しないというのは、被植民者の文学のなかに偉大な文学は存在しないというのと同様に、誤った考えであると述べている。つまり、作家の階級性は、二次的な問題であるということだ。まったくそのとおりだ。この教訓は、もちろん、その作家を研究する人間の階級性の問題を考える上でも同じく示唆的であると言えよう。

しかし、この点は、階級に対する自覚があった上での見解であることには、注意を払う必要があるだろう。階級という、経済的格差によって隔てられる人間の階層化だけが問題では実はなく、その書き手がよって立つ生活の在り方や、そこから想像される虚構の世界に対して、「研究」なるものを行おうとする人間が、どれほど肉薄して想像し、言語化できるかいかんに、作品の凄みに応じれるような研究の凄みはかかっているといえば、あまりに大げさな物言いかもしれない。

言いたいことは、単純だ。自戒を込めてそう思うのだが、作品に対峙するのは大変なことだ、ということである。自分の(浅はかな)理解のうちに作品を回収するのではなく、作品を尊重して寄り添う読解を導くこと(しかし、その寄り添う言葉は時として作品に対するクリティックも厭わない)。

昨日、あるワークショップでブラットベリの『華氏451度』を題材にしてその(私にとっては大変啓発的な)分析を披露してくださったI先生のような読解の境地に自分が辿り着けるかどうかは今は分からないが、その読解に見習いつつ、私もしっかりした言葉を、紡いでゆきたいと思っている。


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