クルマ『アラーの神にもいわれはない』(真島一郎訳、人文書院、2003)


アマドゥ・クルマの小説を読むのは初めてだ。日本語で読めるのは(少なくとも単行本では)この小説だけ。著者の言葉を借りれば「リベリアとシエラレオネの部族戦争を生きたビライマ少年の冒険」を描いた作品である(281頁)。

この作品が「チャイルド・ソルジャー」を題材にした物語であることは、表紙のイラストからも「ある西アフリカ少年兵の物語」という日本語版の副題もはっきりしている。だから、この小説が扱う題材がずっしりと重いものであることは読む前から伝えられている。そのために、気になりながらも、なかなか手に取れないでいる読者もいるかもしれない。私はそういう読者だった。

もし、そのような気持ちでいる人がいれば、迷わずにおすすめしたい。まずは読んでみようよ、と。小説として、何といっても、とっても面白いのだ。その小説の語り口からすると、最近読んだなかではパトリック・シャモワゾーの『素晴らしきソリボ』に近い。

小説はビライマ少年の一人語りで、最初は意表を突く言葉遣いに戸惑うかもしれないが、読み進めると、奇妙な言葉遣いが語りのスタイルとして定着してきて、独特の文体効果を発揮するのに気づくはずだ。ファフォロ!

というのも、この少年の語りのうちには、アフリカの複雑な、多言語的環境や、階級・階層によって異なる言葉遣い、話される言葉と書かれる言葉の違いといった、とても一言では言うことのできない錯綜した関係が、ユーモラスに織り交ぜられているからだ。シャモワゾーの『素晴らしきソリボ』の醍醐味もそこにあり、いくつかの書評でも「翻訳」というテーマに注目が集まったように、やはりこの小説でも「翻訳」が強く意識されていることは、訳者あとがきでもしっかり指摘されているとおりだ。ついでにのべれば、小説の最後に出てくる作者クルマの分身である高学歴の人物は、この小説の実質的な書き手であることが暗示されている。語る者と聞き書きする者というシャモワゾー的構造が言外で語られているのである。

もうひとつ、近似していると思った小説がある。チュツオーラの『やし酒飲み』である。『アラーの神にもいわれはない』も、主人公が探し人を見つけるために冒険するという寓話の形式をとっている(少年の語りという点では、このブログで紹介したモンゴ・ベティの『ボンバの哀れなキリスト』とも結ばれている)。作者が口承の伝承を意識しているのはあきらかだ。語り部の用いる物語のテクニックとして、反復がある。同じ様式を反復させることで、次に何が起こるのかを期待させるものだ。同じ行為が同じ言葉の形式のもとに複数回繰り返されながら、次の新たな展開に進んでいったりするのだ。 ニャモゴデン!

さて、この小説には、非常に読みごたえのある訳者解説がついている。そのなかで、クルマの作品は、叙事詩的な作風が特徴だと言われるが、今回の作品はそうではないと訳者が述べている箇所がある。興味深い指摘だと受け止めた。「少年兵の生きる現実に、詩情をうながすものなど何ひとつ存在しない」というクルマの言葉が紹介されているが(359頁)、まさにそうなのだろう、と思う。ついつい自分の知っていることに引きつけてしまうのは悪い癖かもしれないが、アマドゥ・クルマの詩学は、エドゥアール・グリッサンのそれとどうも近いものを感じるのだ。この箇所でぴんときたのは、グリッサンのフォークナー理解である。すなわち、なぜ叙事詩的世界が破綻して、スノープス一族のはびこる世界が平板に語られるのか、という問題意識である。

もちろん、グリッサンとクルマでは違いも多い。その違いは端的には「アフリカ」と「カリブ海」の違いだ。裏切られた「独立」後のアフリカ諸社会を題材とするクルマ。「独立」なき「フランス化」の過程や奴隷制の記憶を題材とするグリッサン。アフリカの大陸性が「越境」と「放浪」を物語の駆動力になっているのに対して、カリブ海の島嶼性は島の物理的な隔たりが、「内」の視点と「外」の視点、内部と外部という意識を形成しているのかもしれない。

それはともかく、この小説を読むと、アフリカでおこなわれている戦争とそこで生きるということがいったいどんな経験であるのかが、少しは想像できるようになる。アフリカの戦争を題材にしたヒューマニズム系映画よりはよほど重要だと思う。

いままで想像もしなかったことを、想像可能にすること。これが芸術作品の醍醐味のひとつであると思う。想像力の変容をもたらすものとしての文学。『アラーの神にもいわれはない』はその部類の作品だ。ファフォロ! ニャモゴデン!

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