渡名喜庸哲・森元庸介編『カタストロフからの哲学』(以文社、2015)



以文社からの新刊は、『ツナミの小形而上学』以後、日本で改めて注目を集めているジャン=ピエール・デュピュイの仕事をめぐる、初めての本格的な論集です。渡名喜庸哲、森元庸介という2人の編者、および西谷修、中村大介各氏の論考は、デュピュイの思想圏、問題構成の見取図を明確に与えてくれます。それだけでも大変勉強になるのですが、この論集は、さらに一歩踏み込んで、デュピュイの仕事が、「3・11」以後の世界を考えるにあたってなぜ重要であるのか、という問いに貫かれています(巻頭の西谷論文がこの点に正面から応えています)。

この本を通じて、いろいろなことを学んでいるところですが、特に感銘を受けたところを引用します。

どれほど些細と思われる場面であるにせよ、救済を求められることは、人間にとって本質的に計算可能性の埒外にある偶然としてしか考えられない。誰でもあれ、歩いていたら、「路傍の草むらに横たわって」、傷ついているひとに出会すかもしれないのだから。いつそうなるのか。救うことが求められるときは、いつかある、必ずある、ただ、いつであるかはわからない。(森元庸介「救済の反エコノミー」182-183頁)
救済が近代的な意味での「エコノミー」=「経済」には還元されえない、むしろ「計算不能」な偶然にしかなく、それは誰でもよい「誰か」に対する救いであるというが述べられていると思うのですが、この見通しは、エドゥアール・グリッサンの詩学にも近いと感じます。脱尺度(démesure)、予見不能なもの(l'imprévisible)を軸にした、グリッサンにおけるカオス的混淆世界のヴィジョンは、世界中の無数の「誰か」に分かち合われることで成り立つ。破局と救済(両者は表裏であることを同論文は教えてくれます)というキリスト教的テーマは、グリッサンのなかには見出せない気がしますが、デュピュイとグリッサンはそれほど遠いところにいるようには思えません。とはいえ、単なる印象でしかないので、今後よく考えてみる必要があるでしょう。『聖なるものの刻印』、『経済の未来』といったデュピュイの著作を読みたくなりました。

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