篠原雅武『生きられたニュータウン』(青土社、2015)


篠原雅武さんの新著『生きられたニュータウン』(青土社、2015)を読みました。私にとって、篠原さんは私たちの日常を、空間という観点から、独力で思考し言語化している書き手であり(『空間のために』『全-生活論』)、同世代の書き手のなかで「思想家」という肩書きに真にふさわしい仕事をなさっている方です。

同年であるということもあって、篠原さんの問題意識が非常にリアルに私には伝わってくる。1970年代生まれの人間が都市社会で「生きる」、あるいは「生きている」という感覚は何なのか、という極私的な問いが、私にはずっとあるのですが、その問いを共に考えてくれるのが本書です。著者が描くニュータウンの風景は、私の幼年期の風景だと言っていい。

高度経済成長期の産業社会、消費社会に対する批判の系譜を引き継ぐ志を抱く現代の書き手は、やはり藤田省三や、市村弘正や、多木浩二の議論から出発せざるをえない。そして、その議論を乗り越える必要があります。なぜなら、その議論にしたがえば、1970年代に都市部で生まれた人間は、そもそも喪失のなかで生きていくほかないということになるからです。篠原さんは、端的には、『生きられた家』の思想と向き合い、その思想をしっかり受け止めたうえで、『生きられたニュータウン』という作品を世に問うた。そのことの意味を、私は強調したい。

この著作から、今回もいろいろなことを学びました。現代において「生きられた空間」の場所を探るという作業は(私のかぎられた読書経験から)この本をもって始まったのではないかと直観します。「分解」をめぐる藤原辰史さんのお仕事には私も着目していきます。安部公房の『燃えつきた地図』も読みたい。そして、篠原さんが、「西洋人の経験に根ざす思考をそっくりそのまま借用するだけでは理解できない事態を生きている」と考えることに強い共感を抱きます。世界中のさまざまな思想にもっとアクセスできる環境が整うべきでしょう。

最後に以下を引用します。世界への、著者の研ぎ澄まされた感覚(「関係の詩学」)が見出せる箇所です。

廃棄された空間は、モスクワやデトロイトだけでなく、大阪にも、北京にも、リオデジャネイロにもある。ダマスカスにも、キンシャサにも、南アフリカにもあるだろう。私たちには、世界を空間性のあるものとして感じることができる。そのとき世界は、さわめきと静寂、にぎわいと落ち着き、明と暗、動と静、温和と緊張などというように、度合いを異にする雰囲気に満ちたところとして現れてくる。そのような雰囲気を、私たちは様々に感じている。同じ空間であっても、感じ方は様々である。文化的背景、性別、年齢、感受性の度合い、感覚能力の修練度などの違いが、感じ方の違いに影響してくる。それでも、私たちは世界の空間性を感じ、それを、誰に向けて語りたいと思う。

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