リンギス『変形する身体』(小林徹訳、水声社、2015)



叢書「人類学の転回」の第2回目として配本されたアルフォンソ・リンギスの『変形する身体』は、注目すべき著作です。もちろん、重要な本は各分野で毎月出版されているわけですが、それぞれの(専門)分野はともすれば閉域となってしまう。リンギスの思考は、人類学的であり、哲学的であり、文学的です。それゆえ、ある尺度に当てはめて読もうとする人には困惑の種にすぎないと思いますが、さまざまな尺度のあいだを行き交う旅行者リンギスの思考の冒険に同伴する人には「身体」をめぐる新たな(もしかしたら複数の)地平が見えてくるはずです。たとえばその旅の初めに置かれた「不連続性」という題の短いエッセイは、私たちの通念である「時間的連続性」が「不連続性」との関係のうちにあることを、私たちが経験的に知っている(あるいは経験を通じてそうだろうと推測する)ことを通じて、教えてくれます。

1匹のワニが卵の殻を破り、その濡れた背中を日の光の下に伸ばしていく。生まれたばかりの小馬が、よろめきながら立ち上がり、周りを見回す。幼児が泣き叫び、息を吸い込み始める。新しく生まれた生命は、物質的で生理学的な因果の連続性を中断する。過去の力と惰性が、1個の誕生のうちで終わりを迎えるのだ。誕生とは不連続性であり、不合理であり、暴力なのである。(本書20ページ)

また、「社会的身体」と題された章(じつは私には難しくてよく呑み込めていないのですが)で、リンギスは、商業主義的な現代において、私たちの身体が寸断されてしまっていることへの注意を促します。マルクスの「疎外」概念とは、「リンギス」(リンギスを読む私の理解)によれば、私たちの身体の各部位・各器官が、市場経済の要請する身体的使用に従属してしまうことで、自分たちの身体を自由に扱うことができなくなることを指しています。実際にも、私たちは、それぞれの労働環境のもとで要請される仕方で身体を動かします。身体の変容をそのような視点から考察するとき、たしかにリンギスがドゥルーズ/ガタリに依拠しながら述べるように、私たちは肛門にかつて社会的な機能を与えていたことをもはや思い出さなくなってしまったのです(「肛門が大地に接続されて機能し、排泄物を腐植土と混ぜ合わせなくなって久しい」)。


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