カルロ・ギンズブルグ『ミクロストリアと世界史』(みすず書房、2016)



カルロ・ギンズブルグの新著『ミクロストリアと世界史』がみすず書房より出版されました。ギンズブルグの翻訳を手がけておられる上村忠男先生による日本語版オリジナル編集版です。日本の読者に宛てたオリジナルの序文のほか、以下、7編が収録されています。

「経度、奴隷、聖書 ミクロストリアの一実験」
「世界を地方化する ヨーロッパ人、インド人、ユダヤ人(1704年)」
「わたしたちの言葉と彼らの言葉 歴史家の仕事の現在にかんする省察」
「ヴァールブルクの鋏」
「内なる対話 悪魔の代言人としてのユダヤ人」
「ミクロストリアと世界史」
「無意志的な啓示 歴史を逆なでしながら読む」

ギンズブルグの読者はご存知のとおり、この歴史家の叙述の手法は、序・本論・結論といったような、論理が線的に展開していくようなスタイルでは書かれていません。1,2,3というようにふられた数字がセクションを作り、そのセクションのなかの一部が次のセクションで展開されていく、螺旋的なエクリチュールと言えばよいのでしょうか。いや、ミステリー仕立ての叙述、と言った方がよいかもしれない。埋もれてしまった古い時代のテクストのなかに、その時代のコンテクストの証跡を見つけ出し、忘れ去られたその本がいつ、どこで、どのような目的で書かれたのかを推理していく。ミクロストリアの方法とは、なんとスリリングで面白いものか、と思う次第です。

面白いと思ったところを覚書のように記しておきます(順不同)。

1)「わたしたちの言葉と彼らの言葉」におけるフランコ・モレッティの「世界文学についてのもろもろの推測」をめぐる記述。モレッティが「公刊されたものの忘れ去られてしまったテクストがとても全部を読みとおせないほど膨大な量にのぼることからやってくる挑戦を受けて立つ唯一の方途は、ケース・スタディ、すなわち、あるひとつの問いによって同定される限定されたテクストについての直接的な分析に立脚して仕事を進めることだ」と述べている点(84ページ)。また、「文学の屠場」という論考でモレッティは、「証跡を手がかりにしての推理という文学上の工夫について論じている」(同)。この考えのうちにあるのは、「ひとつのトピックとしての証跡が分析されるのは証跡にもとづくアプローチを介してであるから、細部は全体を模写したものとならざるをえない」のであり、「証跡は又聞きではなく直接史料にあたての読解を要求する」。そして「テクストに密着した分析的な読解は膨大な量の証拠と両立可能である」(85ページ)。

2)「世界を地方化する」で言及される、ラ・クレキニエールの『東インド人の習俗とユダヤ人およびその他の古代の諸国民の習俗との一致』(1704年)のスリリングな読解。ラ・クレキニエールの著作の面白さは「古典研究」と「人類学」が「交差するなかで出現した」点にあり、「人類学は古遺物研究家的趣味から誕生したというアルナルド・モミリアーノの示唆の正しさを確認させてくれている」という指摘(31ページ)。以下、ラ・クレキニエールの序文の文章。「わたしの計画は、叶うものならアジアじゅうを旅して回ることだった。そしてそのなかでほかならぬ最もちっぽけな事物を観察することだった。普通の人々の古い習俗、祭り、ことわざ、家屋を建てたり食べ物を摂取したり衣服を身に着けたり土地を耕したりする方法がそれである。というのも、もしそこに古代のなんらかの足跡が見いだされるとするなら、それらは最も単純で最も平明な人々のあいだ、砂漠に住んでいる人々のあいだ、そして総じて、ほとんど文明化されておらず、新しい流儀を発明しようとか領主が発明したものを自分たちも取りいれようという野心もなければ富もなく、その結果、彼らの祖先たちの流儀をけっして変えることのない人々のあいだに出会われるにちがいない、とわたしは確信しているからである」(35ページ)。

3)「過去を再演するということは、過去を全面的に蘇生させるということからはほど遠く、ひとつの制限された、人工的な経験であるということ−−2つのコンテクスト、観察者の置かれているコンテクストと行為当事者たちの置かれているコンテクストのあいだの対話にもとづく反復であるということを含意している。約言するなら、あらゆる歴史は比較史なのだ」(176ページ)。


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