『ユリイカ 特集アメリカ文化を読む』2017年1月号に寄稿しました

お知らせがおそくなりましたが、『ユリイカ』2017年1月号に文章を寄せました。題して「海原が きみの歌のなかに 鳴りひびきつづけた 午前3時のアメリカの幻」です。奇妙なタイトル、奇妙な内容なのですが、この文章の前には、丹生谷貴志の「L'Amérique fantôme.「幻のアメリカ」」が。まるで示し合わせたかのような共通点もあって光栄です……さて、「海原が…」のほうの書き出しを以下、掲載します。続きはぜひ本誌を手にとってご確認ください。

その日の夕方、授業後に研究室に戻ったNがいつものように机のラップトップを開いて何十通かのメールを確認していると、いつものとはちがう一通のメールに気づいた。アメリカ文化にかんする雑誌特集への寄稿依頼のメールだ。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞や大統領選でのドナルド・トランプの勝利など日本のメディアの注目をあびている、あの国の文化のゆくえについてさまざまな見地から考えてみる、というのが企画の趣旨らしい。それにしてもどうしてぼくなのだろうかとNは首をかしげる。Nは「アメリカ」のことをじつはなにも知らなかった。これまで滞在したことがあるわけでもなく、知っていることといえば日々の報道で話題とされる程度であり、この国のだれもが知っている「アメリカ」とさほど変わることがなかった。にもかかわらずと言うべきかだからこそと言うべきかはわからないが、Nは、この国の一般通念に反して「アメリカ」が好きにはなれなかった。
 好きになれないのは人ではなく、国だった。Nにとって「アメリカ」とは、海のかなたのあの大陸の政府のことだけを指さない。「アメリカ」のプレゼンスはこの国にも及んでいる。米軍基地はその動かしえない証拠だ。沖縄では人々が基地建設を阻止しようと抵抗している。けれども、この国の大手メディアはそのことをほとんど報じないし、代わりに大々的に報じることといえば、あの国の大統領選のことばかりだ。この国にとって、世界とは「アメリカ」の別名であるかのようであるし、そんなうすっぺらい世界観に拠って立つこの国のこともNにはやはり好きにはなれなかった。
 そんな感覚におちいって神経をすり減らすこの男は、病気かもしれなかった。ふだん授業で学生と話す以外は会話をしない男は研究室にこもって本ばかり読んでいた。届いたばかりの西谷修『アメリカ 異形の空間』(講談社メチエ、二〇一六)を読むことで、Nの「アメリカ」への想念はよりいっそう強まるのだった。世界最大の覇権国になったあの国の成り立ちには、先住民の弾圧と奴隷制があるのではないか。研究室の書棚にある、藤永茂『アメリカ・インディアン悲史』(朝日新聞社、一九七四)、豊浦志朗『叛アメリカ史』(ちくま文庫、一九八九)、今福龍太『ジェロニモたちの方舟』(岩波書店、二〇一五)といった書物がそうした想念を養っていた。Nには、かれがもっとも影響を受ける作家のひとりエドゥアール・グリッサンにならって、あの地域一帯を「アメリカス」と呼ぶ習慣がある。北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカを総称する「アメリカス」という言葉は、あの国だけが「アメリカ」を代表しているわけではないことを示していた。

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