「図書新聞」連載 第2回 ヴィーコ「新しい学」


今週発売の「図書新聞」3307号に連載第2回を掲載いただきました。図書新聞のサイトでも無料公開されていますので、こちらにも転載します。

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森元斎『アナキズム入門』(ちくま新書、2017)のなかで印象的な一節に出合った。栗原康の文章に通じるその自由放埒な口語的文体から立ち現れる5人のアナキストの評伝的軌跡もさることながら、森が述べる「方法としてのアナキズム」が筆者には興味深い。
 森によれば、アナキズムは「近代的な思考方法」とは異なる「知恵の位相」にある。しかもそれは、特別な思想の類いではなく、「あらゆる未開民族と呼ばれる人たちが有していた知恵」なのだという。森がアナキズム的思考方法(ひとまずそう呼ぼう)のうちに認めるのは、合理主義的な思考方法の成立以前にさかのぼる、「真偽判断にかけてみれば、多くが偽となる」ような、「レトリカルな関係」に基づいた未開民族的な知恵のあり方である。
 ここから、森は、アナキズム的思考方法の領域を、世界各地のさまざまな民族の「生の技法」を探究する学問としての文化人類学へと拡張させていくが、その論旨展開の手前で立ち止まって考えてみたいことがある。なぜレトリックが未開民族と呼ばれる人々の知恵の特徴となるのだろうか。
 そのことを考察するにあたって、筆者はジャンバッティスタ・ヴィーコの名を引き合いに出したい。17・18世紀イタリアを生きたこの哲学者は、主著『新しい学』第2巻のなかで古代人の「詩的知恵」を論じている(以下、上村忠男『ヴィーコ』も参照)。
 詩的知恵は、近代的視座からは「未開」とされてきた、太古の人々が編みだしてきた〈世界〉の把握のことだ。たとえば古代ギリシアは、ヴィーコにとっても、理性主義的アプローチでは及ばない、時間的にも文化的にも隔絶した場所だ。その異教の土地からどのようにギリシア神話のような物語が生み出されたのか。ヴィーコはこのことを次のように推論していく。
 異教世界の「最初の人間」は、論理的な知性を有しない反面、感覚と想像力が研ぎ澄まされていた。要するに、天性の詩人だったのである。その人々が最初に生み出した神が、ゼウスだった。
 ゼウスの誕生は、雷の発生と結びついている。人々は落雷という「原因のわからない大いなる現象に驚き、びっくりして、目を上げ、天に気づいた」のである。そこで、かれらは「天を一個の生命ある巨大な物体であると想像し、そのような相貌のもとで、それをゼウスと呼んだ」。
 以上のヴィーコの推理を科学的に証明するのは難しい。しかしこの推論はおそらく正しいと筆者は考える。始まりの人間は詩人的資質を有していたからこそ、かれらは原因不明の雷を「神」という詩的記号で喩えた。つまり、自然界の事象をさまざまに喩え、把握していくことによって、〈世界〉を構想していったのではないか。ヴィーコによれば「最初の人間たちは、かれらがなしえたかぎりのものによって、つまりは感覚と情念によって、物体に生命ある実体の存在をあたえ、そこから物語を作りあげたのだった」。
 ヴィーコは、こうした太古の人間のうちに「幼児の本性」を見ている。このことは重要だ。太古の人間を「幼児」と喩えることは、悟性的判断力を備えた「大人」であるところの現代人の優位を説くことではもちろんない。私たちが人間である以上、いかなる時代、いかなる文化を生きていようと、かつては「幼児」だった。「幼児」というメタファーが可能とするのは、私たちもまた潜在的には詩的知恵(太古の人間の知恵)を有している、と捉える認識なのである。
 この「幼児」とは、私たちの内なる太古の人間、私たちの内なる未開民族のことだ。この意味で、「人類が何千年も生きてきた中」に「技法や知恵などのヒント」を見出そうとする、森の姿勢に共感を覚える。同じく「私たちは私たちから学ぶのだ」という一文にも。ただ、そのためにも、なにより必要なのは、私たち自身が詩的創造を再発見することではないだろうか。つまり、後天的に身につけた論理的知性を宙づりにすることで、たとえ一時的にでも天性の詩人となることであり、その感受性と想像力から、私たちが生きる世界を根本的に見つめなおすということではないだろうか。その退行的な方法は、アナキズム的と呼ぶかどうかは措くにしても、この破綻寸前の世界を創造的に生き抜くために必要な知恵のあり方をまっすぐに示している。

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